生活の流れ作業化を止めるべく
目が覚めて、30分ほど布団の中でゴロゴロして、ようやく起き上がって顔を洗い、着替え、朝食のレーズンパンかスティックパンを2個ほど食べ、ヨーグルトも食べ、歯を磨いて髪の毛を整えて、身支度をして家を出て、徒歩5分・自転車だとわずか1分の研究室へ向かう。
コンビニのパンかおにぎりを昼食に食べ、3時に散歩に行ったりしながら、混雑を避けるべく5時過ぎに夕食を食べに行き、また研究室に帰ってきて、夜11時頃に帰宅する。
帰宅後は即シャワーを浴びて、髪を乾かして歯を磨いて、布団に寝転びながらだらだらスマホをいじったり本を読んだりして、1時〜2時に眠りにつく。
そうしてまた朝になり、布団の中でゴロゴロして、を繰り返す日々。
*
あれ、と思ったのは、一昨日の日曜日の朝。2週間のお休みから1ヶ月以上経ち、「結構いい感じじゃん」なんて思っている頃だった。
もしかして、私の生活、流れてる?
毎日が単調で淡白だけど、その中にもほんのり色付く出来事は目を凝らせばたくさんあって。そんな毎日をnoteに記したりして。
無理のない範囲でやる研究は、相変わらず遅々として進まないけれど、でもちょっとは楽しくて。
そんな充実を確かに感じているのに、おかしいな、なんだか生活が流れていっている気がする。毎日の生活が、流れ作業になっているみたいなーー
そうして、気づいた。
私、ちゃんと”生活”をしていない。
***
2020年は食事・運動・睡眠に気を付ける!
そんなnoteを、つい先日の元日に書いた。
そのくせ、その3つで構成される”生活”というものが、おざなりだったのだ。
といっても、この3つに気をつけていなかったわけじゃない。
まだ初めて2週間とはいえ、これまで抜くことの多かった朝食を食べる頻度は劇的に上がったし、1日に1度、散歩して歩くようにもしている。睡眠にも気を使って、なるべく1時までには布団に入り、呼吸を深める瞑想アプリを使ってリラックスするように努めたりしている。
確かに気をつけていた。でも、おざなりだったのだ。別の言葉で言えば、”機械的に”、”作業として”こうした食事・運動・睡眠を行っていたのだった。
「なんだか、生活が流れていっている気がする」
この違和感は、生活の最も基本的な食事・運動・睡眠への向き合い方を変えないといけないよ、というサインなのかもしれない。
***
ぱっと思いついたのは、食事についての認識だった。
”食えればいい”という認識が前提になっている。
朝は朝食を作る&食べるが億劫。トーストを焼くのさえ面倒なので、調理の一切いらないレーズンパンやスティックパンをさささっと食べていた。こうして、”3食食べる”という目標をクリアしていた。だって、”食べた”もん。
この適当さが、”流れてる”の原因なのではーー
だから、目標を”3食食べる”から”朝食をしっかり食べる”に変更することにした。
ちょうど、納豆を食べたいと思っていたのを利用して、朝ごはんにごはんと納豆と、目玉焼きを用意。立派な(当人比)朝ごはんを前に、おなかがぐう、と鳴る。
「いただきます」と手を合わせ、しっかりよく噛んで食べる。美味しい。
朝ごはんを作って、器にもって、よく噛んで食べる。
それだけでいつもより頭はしっかり起き、おなかもこころも満たされる。
発表前とか立て込んでいるときは無理だなあ、と思うけれど、できる限り朝食はきちんと取ろうと決意する。
***
のこりの2つ、運動・睡眠についてはまだ模索中。でも朝食を見直しただけでかなり気分がいい。だらーっと毎日が流れている感じが少し弱まった気がする。
ただ、2日連続納豆は飽きるということがわかった。買い出しにいかねば。
さて、明日の朝は何を食べようか。
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