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優しさについて

仕事でgoogleドキュメントを使っていたら、3年前のどういう意図で書いたかわからない文章が出てきたので、
今にもまして稚拙な文章ですが敢えて手を加えずにそのまま載せてみようと思います。
過去に自分が書いた文を読むのは、恥ずかしくも面白いものですね。

以下本文です。

優しさには2種類ある。

1つは、生来の、天性のそれ、持って生まれた性質。
または幼い頃の育った環境によるもの。
いわゆる「性格」というものがもしあるとするならば、「優しい性格」というものである。
ここには自らの意思で備え付けた、というよりは、初めから、或いは幼い頃から、身に付いていた、いわば先天的なもの、というニュアンスが強い。

2つ目は、反対に、自らの意思によって作り出したそれである。
「人に優しくしたい」という想いを源泉に、そのためにはどうすれば良いのかを考え、絞り出し、捻り出し意図的に優しさが生まれる土壌を整えていく作業の連続。
優しさを圧搾する作業の積み重ねによる賜物である。

では、その「優しさが生まれる土壌」とは何か。
それは、「余裕」である。
もう少し詳細に述べると、「人に優しくするために持っておく心の余裕」ということいなる。
まず、優しさの定義として、「おせっかい」という言葉を使って考える。
ここでいう優しさは、自分の身の回りのことは完璧にしておいて、他人のことに構っていられる状態、すなわち「余裕」がある状態で成される行為のこととする。
いっぽうで、おせっかい(原義とは異なるとしても便宜上この言葉を使用していることを留意していただきたい)は、他人に構っていられる余裕など無いのに、自分のことは棚に上げて、他人の事情に時間を割いてしまう行為のことと考える。
ここでいう優しさとおせっかいは、明確な区別を持った別物ではなく、優しさはおせっかいを包括するもの、おせっかいは優しさの一種であると言える。

自分のこと、他人のこと。
明確な線引きなど不可能である、自分のことを余所にして他人を思い遣る気持ちこそが優しさである、という考えもあるであろうことは重々承知だ。
しかし、こうした「おせっかい型」の人間は、往々にして自滅の道を歩む傾向にある。
自分のことを疎かにするからだ。

つまり、自分でコントロールできる範囲のことは出来る限り完璧な状態に常に整え、他人への気遣いに回すことのできる「心の容量」を残しておくことこそが、2つ目の「意図した」優しさであると言える。

ここで注意しておいてもらいたいのは、おせっかいは無価値、おせっかい型人間には優しさを振る舞う資格が無い、などど言うつもりは毛頭無い、ということだ。
誤解を解いたところで先に進むと、ここで言う自分でコントロールできる範囲のことというのは、主に末尾に管理、と付く類のものである。金銭、健康、時間、などなどのことである。
優しさという、他者を巻き込み、相互作用によって幾多のパターンが想定され得る、言うなれば想定外のことが続々と起こり得ることが想定されるという正当性のある矛盾を孕んだコミュニケーションの場面においては、
1人、つまりは一方だけではコントロールの及ばない事象がほとんどである。
であるからこそ、自分でコントロールできることは常に支配下に置いておくことが、極めて肝要になってくる。

そして、1つ目の優しさについてだが、こちらはかなりの厄介者である。
天性の優しさというものは、時におせっかいに繋がる。
と言うよりも、その可能性は高い。
先にも述べた通り、おせっかいは、自滅だけに留まらず、力になろうと努めた他者に、結果的に危害を加えることさえある。
生来の優しさは、言い換えれば天然資源、ナチュラルなものであり、純粋無垢なものである。
しかしそれ故に、自分の身を省みず、優しさに「走って」しまうことが頻繁に起こり得る。
しかしここでまた留意していただきたいのは、この純粋な優しさは、意図した優しさの廉価版ではない、ということである。
たしかに天性の優しさは時として厄介ではあるが、だからと言って意図的優しさvs純度の優しさという構図には決してなり得ない。
むしろ、両者は地続きであり、純粋な優しさは、意図した優しさの前段階であり、自意識的優しさは、その「進化版」「覚醒版」と言うことができる。

これら2つの優しさ論に加えて、日々の経験から述べると、積年の練磨によって作り出した意図的優しさ(未だにこの命名には納得していないのだが)を、さも生まれた瞬間からの性質のように、「性格」として片付けられるのは、誠に遺憾である。
こう言ってしまうと自分で己が寛容なのか不寛容なのか、わからなくなってくる。
長年積み上げてきたものを性格として一言で片付けられてしまうと、非常に寂しい気持ちにもなる。
しかし、「影の努力」として、認めてもらいたい、賞賛されたいというわけでもなく、それもまたヒロイズムに浸っているようで自分が許せなくなるのだ。
そして、この議論を根底から覆すデリートキーを見つけてしまった。
冒頭に記した、優しさの源泉となる、「人に優しくしたい」という想いが湧き出すことこそが、優しい「性格」の持ち主ということになってしまうことなのかもしれない、と、散々書き散らしてきてここでそう思ってしまったのである。

私は単に、他者に寛容でいる余裕を作り出すための日々の営みを、性格という一言で容易に片付けてもらいたく無い、という不寛容を持て余しているだけなのかもしれない。
寛容でありたいと願い励む時間を無下にされることには不寛容、ということになるが、ここは何とか、それも人間の性である、ということに「片付けて」いただきたい。

それくらいの「寛容さ」を、あなたはお持ちでしょうか。

小野トロ

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