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はっぴぃもぉる 005

家を出て駅まで歩き、電車に乗って会社の最寄りの駅に着くまでの間、そんなことをぼんやりと考えていた。

電車が静止し、息を吐き出す音と同時に、人間たちもブワッと吐き出される。
その時、中学生の頃付き合っていた女の子に、別れてしばらく経ってから偶然会って声をかけられた時に、忘れたフリをして咄嗟に「誰ですか?」と答えたことを思い出した。 

断片的にではあるが、何故か記憶の貯蔵庫に保管してあって、ふとした折に何かの拍子で思考の最前線に飛び出してくる記憶がある。
僕にとってはまさに先述の記憶が「それ」だった。
確かに恥ずべき過去であるし、当時のその彼女にしてみればショックだっただろう。
しかし、今はすっかりその子の記憶には残っていないかも知れないし、殊更に大事な記憶としてとっておくような永久保存版の戒めであるようには思えない。
であるのに、何故だか鮮明に覚えていて、あの時の空気の匂いまでしっかりと感覚として刻み込まれている。
きっとこれからも不定期に何度も思い出すのだろう。
そしてその現象に対して僕は何の感情も抱かないであろう。
さらにはその現象の理由も永遠に解明されないまま、僕の海馬の容量は使われ続けるはずだ。

忘れていた左肩の痒みが蘇り、その瞬間だけ意識の最前列へ登場するも、すぐそれは痒みからただの違和感に変わり、また最後尾へ追いやられる。

あれだけ心の触れ合いに喜びを感じていたにも関わらず、もう例の踏切の彼女についての記憶や心の華やぎは意識の遠くの方へ、数年前にもらった誕生日プレゼントのように宙を彷徨っていた。

得てしてそんな時にこそ、再会の時は訪れるものだ。
本当にうまくできている。
小説でも読んでいるように、それを他人事に感じた僕は、少し億劫になっていた。
前日には待ち望んでいたはずの再会が、煩わしくなっていたのだ。
その怠惰な唇が眼前に現れた時、僕は思わず「誰ですか?」と言ってしまいそうになった。
中三の夏の、あの日のように。
そして、そう言っていれば、どれだけ楽だっただろうか。
しかしながら僕の唇は、頭で考えるよりも先に動き、
喉からの振動を空気中に放出していた。

「久しぶり。」

はっぴぃもぉる 006へ続く

小野トロ


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