Mo Chan

会津との不思議なご縁から、古代史などを探っています。

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    不思議なご縁により、会津の古代史を探る旅が始まりました。 堅苦しくない、自由な発想で、書き進めます。

最近の記事

【柳津の土偶状装飾付き縄文土器】

■向かい合う人型の装飾■ 今年の一月、福島県柳津町の「やないづ縄文館」で保管していた土器片が、非常に珍しい形の縄文土器の一部だとわかり、全国的なニュースになった。 土器片は、約20年前に町内の池ノ尻遺跡から出土したもので、つなぎ合わせて復元した結果、国内最大級の「たる型深鉢土器」だとわかった(推計の高さは約70㎝、口径は37・8㎝、最大径は61・4㎝)。今から約5千年前の縄文時代中期に作られたという。 最大の特徴は、取っ手と思われる部分に互いに内側を向いて付いている、一

    • 埴輪が語る力士、「おさげ」のルーツ

         ◇◇鳥追観音の「なで仏」◇◇ 西会津町野沢の鳥追(とりおい)観音・如法寺(にょほうじ)は、徳一によって建立された古い寺だ。観音堂の「身代りなで仏」をなでで祈願すれば、ころりと大往生が叶うというので「ころり観音」とも呼ばれている。  私はこれまで三度この仏様をなでたが、いつもその姿が不思議でならなかった。頭部や両腕は失われ全体が朽ちているものの、下半身には強靭なパワーを感じるのである。 『西会津の指定文化財』(西会津町教育委員会、令和4年)を取り寄せると、このなで

      • 【川港「津川」から御神楽岳、会津への道】

                              ◇会津藩の重要拠点「津川」◇ 7月の初めに、新潟県東蒲原郡阿賀(ひがしかんばらぐんあが)町(まち)の津川(つがわ)へ行った。 東蒲原郡は、7世紀の行政区分では越後国だが、平安時代の後期になると会津に属した。これは、越後の豪族(城(じょう)氏(し))が、現在の東蒲原郡にあたる「小川庄(こがわのしょう)」を会津の慧(え)日寺(にちじ)(耶麻郡磐梯町)に寄進したからである。 東蒲原郡(小川荘)は江戸時代も含めて約700年間も会津の一部と

        • 【伊佐須美神社の双身歓喜天~其の二】 

           ◇関東へ入植した半島からの渡来人◇ 7世紀の朝鮮半島は、高句麗・新羅・百済が競う三国時代である。 今の北朝鮮のあたりが高句麗、半島の東側には後に朝鮮半島全体を統一する新羅、西側には百済があり、その百済と当時の倭国(日本)は良好な関係だった。 660 年、新羅と唐の連合軍が百済を滅ぼすと、倭国は百済復興のために出兵するが、663 年に白村江で大敗。 その結果、百済の王族や貴族の大部分が日本に亡命し、大勢の難民も倭国に移住した。一方、新羅は勢いづき、668 年には再び唐の力

        【柳津の土偶状装飾付き縄文土器】

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          35本

        記事

          伊佐須美神社の双身歓喜天

          父の実家は大沼郡高田町(現・会津美里町)にあった。 お盆に帰省すると、決まって近くの伊佐須美神社へお参りしたことを思い出す。それはもう半世紀も前のことだが、真夏でもひんやりとした空気に包まれた境内は、子供心にも歴史の重みを感じる空間だった。残念なことに当社は、2008年の火災で社殿のほとんどを失ったが、私はあの頃の記憶に導かれるように会津を旅して、「不思議のクニ会津」の魅力を探っている。 父にはだいぶ年上の姉がいて、松平勇(いさ)雄(お)氏とは、幼いころ一緒に遊ぶ仲だと話

          伊佐須美神社の双身歓喜天

          喜多方の熊野比丘尼

          江戸時代のはじめ1611年、会津地方を襲った直下型地震(慶長会津地震)は、倒壊家屋が2万戸余り、死者は3,700人以上という大地震だった。会津盆地西側の多くの寺社が倒壊したが、なかでも新宮熊野神社(喜多方市慶徳町)の被害は甚大だった。 現在の当社は、拝殿「長床」正面の石段をのぼると、新宮・本宮・那智の三社が祀られ、その背面に小高い森が広がっているが、震災前まではそこに、紀伊国(和歌山県)熊野三山に倣(なら)った大伽藍が存在したのである。 震災の約90年後、渡辺直昌という会

          喜多方の熊野比丘尼

          『喜多方・熊野神社と高麗橋』

          11月の中旬、喜多方の新宮熊野神社(慶徳町新宮)は、ご神木の大イチョウが見事に色づいていた。神社創建の際に植えられ、樹齢は800年以上と伝わるが、拝殿「長床(ながとこ)」と並ぶ景観は実に壮観だ。 国の重要文化財「長床」は、熊野信仰修験道にともなう特殊な建物である。平安末期から鎌倉初期の建立で、44本の太い柱が支える吹き抜けの構造だが、1611年の大地震で倒壊した後、幾度の補修により現在に至っている。 会津風土記などによると、当社は中世の隆盛期には東北における熊野信仰の一大

          『喜多方・熊野神社と高麗橋』

          【水でつながる会津の古代史】

          民謡「会津磐梯山」には、「恋の滝川 舟石越えて 親は諸白(もろはく)(エーマタ)子は清水(しみず)」という歌詞がある。 「子は清水」とは「強(こわ)清水(しみず)」、湧水を使った蕎麦で有名な場所で、「親は諸白、子は清水」とは、働き者の父親と親不孝の放蕩息子にまつわる昔話である。 この地に日照りが100日間も続いた。 朝から晩まで懸命に働く木こりの父親が、帰り道で一服して滝の水を飲むと「諸白」つまり酒に変わっていた。 それを見た息子が、これ幸いとその水を飲むがただの水。 ある

          【水でつながる会津の古代史】

          【磐梯山信仰と大伴修験のルーツ】

          2年前の春、車を飛ばして、北陸から新潟へ日本海沿岸を巡り、阿賀野川沿いに会津盆地に入るという旅をした。 会津は、太古より列島各地との交流が盛んで、なかでも日本海側の広範囲な地域からヒトやモノの流入した歴史がある。 この旅では、海を渡り会津に移り住んだ古代の人々の足跡を感じ取りたいと思ったのだ。 旅の最終日は、会津盆地を東に横断し、猪苗代町三ツ和の出雲神社に着いた。磐梯山の裾野から、猪苗代湖方面に続く田園地帯に鎮座するこの小社には、ぽつんと鎮守の森が残る。   参道から社殿越

          【磐梯山信仰と大伴修験のルーツ】

          【十一面観音と会津の古代仏教】

          今年のゴールデンウイークこそは、会津の旅を楽しみにしていたが、どうにもコロナが収まらない。しばらく先延ばしにして、近場の名所旧跡を訪ねることにした。 久しぶりに鎌倉の長谷寺を訪ねると、名物のアジサイの開花には早すぎたが、多くの参拝客でにぎわっていた。本尊「十一面観世音菩薩」造立1300年を記念した「御足(みあし)参り」では、観音堂に安置された九メートルもあるご本尊の全身がご開帳になり、そのふくよかな足に、触れることができる。 志(し)納金(のうきん)を収め順番が来ると、私はそ

          【十一面観音と会津の古代仏教】

          【虚空蔵菩薩から古代会津を考える】

          今年は丑年。年男となった私の守り本尊は「虚空蔵(こくうぞう)菩薩(ぼさつ)」である。 子供の頃、会津高田町(今の美里町)の祖父に連れられ、柳津の圓蔵寺へお参りした。 暗いお堂で、頭がよくなりますようにと虚空蔵菩薩に手を合わせ、撫で牛の頭もなでた思い出がある。今年もお参りしたいところだが、なかなか叶わない。 圓蔵寺に伝わる「一三参り」は、明治末期まで会津一円で広く行われていた。お寺の案内書には、「一三歳になった子供は新調した衣装を着て親と共に、陰暦三月一三日(現在の四月一三日

          【虚空蔵菩薩から古代会津を考える】

          【鬼渡神社と山の民の足跡】

          昨年末、会津好きの面々で忘年会をした。場所は都内にある、三島町産会津地鶏専門店。お任せで焼き鳥などを頼んだが、歯ごたえのある上品な味わいだった。 「会津地鶏」の起源は、平家の落人(おちうど)が愛玩用として持ち込んだニワトリだとする説もあるが、食用として供給されるのは現代になってのことだ。 そもそも日本のニワトリは、紀元前2世紀頃に中国大陸から伝来し、鳴き声で朝の到来を告げる「時告げ鳥」として利用されていたという。 天(あまの)岩戸(いわと)神話でも、天(あま)照(てらす)大

          【鬼渡神社と山の民の足跡】

          会津の成り立ちと移入文化

          ◇11月初めの連休に会津若松に行った。 流行病のせいでしばらくのあいだ遠出ができず、ちょうど1年ぶりだ。 今回は、「黒潮文明論」の著者でもある稲村公望氏との一泊旅行だったが、天王寺の柴田住職と作家の笠井尚氏にもお世話になった。 最初に訪れた磐梯町の恵日寺は紅葉の真っ盛りで、この日からライトアップが始まるという。 会津古代仏教の中心地が見事に赤く染まる時期は限られるから、ぜひ大勢の人に見てもらいものだと、私も主催者のような気持ちになった。 9世紀の初めに徳一が磐梯山の山麓に

          会津の成り立ちと移入文化

          【舟形木棺の意味するもの】

                                ◇古墳時代の代表格といえば、前方後円墳だ。上空から見れば、巨大な鍵穴のように見えるこの墳丘を「前方後円」と名付けたのは、江戸時代後期の儒学者、蒲生(がもう)君(くん)平(ぺい)(1768-1813年)だ。  当時、この墳丘が一般に「車塚」と呼ばれていたことから、高貴な人を乗せる牛車の姿を思い浮かべた。古墳を横から見て、低い前方部は牛が引く2本の長柄で、丸い後円部が貴人の乗る車。つまり、車は牛の引く長柄の方向へ進むから、前方としたの

          【舟形木棺の意味するもの】

          「青」の地名が伝える会津の古代史

          ■4世紀ごろの会津盆地には、強大な豪族が3グループほど存在した。 その遺跡は、東南部の「一箕(いっき)古墳群」(会津若松市)、北東部の「雄(お)国(ぐに)山(さん)麓(ろく)古墳群」(喜多方市)、それに西部の「宇内(うない)青津(あおつ)古墳群」(会津坂下町から喜多方市)である。 私がはじめて会津の古墳を訪ねたのは、会津坂下町青津の「亀ケ森・鎮守森古墳」だった。 この2基の前方後円墳は同じ方向に並んで築かれていて、亀ケ森古墳は東北第2位の規模(全長127m)を誇る。 前

          「青」の地名が伝える会津の古代史

          猪苗代湖畔に鎮座する製鉄の神々②

          ■「石動木(いするぎ)」の地名が示す歴史 東田面の金砂神社は、旧名称は「金沢神社」で、石川県の金沢に由来するという。 日本海に大きく突き出した能登半島には、太古から対馬海流により大陸から多くのヒトやモノが漂着した。 スサノオが降り立った出雲のように、この地域でも早くから製鉄文化が栄えていたのだ。 金砂神社の1キロ北にある「石動木(いするぎ)」という地名は、石川県から富山県にまたがる「石動山(いするぎやま)」に結び付く。 石動山修験道の里の拠点ともなった石川県羽咋(はくい

          猪苗代湖畔に鎮座する製鉄の神々②