【川港「津川」から御神楽岳、会津への道】
◇会津藩の重要拠点「津川」◇
7月の初めに、新潟県東蒲原郡阿賀(ひがしかんばらぐんあが)町(まち)の津川(つがわ)へ行った。
東蒲原郡は、7世紀の行政区分では越後国だが、平安時代の後期になると会津に属した。これは、越後の豪族(城(じょう)氏(し))が、現在の東蒲原郡にあたる「小川庄(こがわのしょう)」を会津の慧(え)日寺(にちじ)(耶麻郡磐梯町)に寄進したからである。
東蒲原郡(小川荘)は江戸時代も含めて約700年間も会津の一部となり、津川は会津藩の拠点として大いに栄えたのだ。
旅の初日、会津若松から車を借り小一時間で津川に着くと、代官所の跡地に建つ「狐の嫁入り屋敷」に車を停めた。ここからは、阿賀野川と常(とこ)浪川(なみがわ)が合流する雄大な景色を見ることができる。川沿いを歩くと、草が生い茂る川岸に「津川川港(かわみなと)跡(大船戸(おおふな))」の案内板があった。
「江戸時代、津川は会津藩の西の玄関口で、新潟から阿賀野川舟運によって西廻り塩や海産物などが運ばれ、津川で陸揚げされ若松まで街道輸送されました。一方、会津街道から運ばれてきた藩のご廻(かい)米(まい)や産物を船に積荷して新潟へ輸送するという、津川は水陸輸送の中継地として栄えた川港町です。その船着場を大舟戸と呼び、付近には、船番所、藩の米蔵・塩蔵・蝋(ろう)蔵、問屋などがあり、百五十隻ほどの船が発着し、船荷を積み下ろしする丁持(ちょうもち)衆(しゅう)が百人も働いていました。そのような賑わいから日本三大川港と称されていました」と書いてある。
しかし今はもうその面影はない。苔むした石垣や石段をみて、当時の船着場の賑わいを思い描くしかなかった。
江戸時代の輸送の中心は舟運である。舟運はその輸送量と運搬の速さ、そして運賃の安さも陸運より勝っていた。馬による運賃は舟運の4~5倍かかったともいわれている。
それでも、会津盆地と津川の間を陸路で輸送したのは、津川から上流の阿賀野川(会津側では「阿賀川」と呼ぶ)は勾配のきつい渓谷で難所が多く、舟運には適していなかったからである。(上流域では、難所は人夫や馬が運び、また船に積み替えるなどしていた。)
さて、川には氾濫がつきものだが、津川は、川岸の荷揚場の道路を過去最大の洪水位と同じ高さに設計していた。また、本流の阿賀野川が洪水になると、舟が支流の常浪川で待避できたことも、この港の発展を支えたという。(小林一三氏『阿賀野川一塩の道』)
しかし、明治以降に船舶が大型化すると、阿賀野川の舟運には限界が見えてきた。さらに大正3年に磐越西線が開通することでいっそう衰退し、昭和38年のダム建設により、阿賀野川舟運はその使命を終えた。津川はそんな歴史の波にのまれた街なのである。
◇イザベラ・バードの山越えと「津川の急流下り」◇
大舟戸の案内板には、こんな文章も紹介されている。
「津川を出ると間もなく、川の流れは驚くべき山々にさえぎられているように見えた。山塊はその岩の戸を少し開けて私たちを中に通し、また閉じてしまうようであった。露骨さのないキレーンであり廃墟のないライン川である。しかもそのいずれにもまさって美しい。」イザベラ・バード著「日本奥地紀行」(高梨健吉訳文)
明治11年7月1日、英国の女性旅行家イザベラ・バードは、会津盆地から厳しい山道を経てこの津川に着くと、二日後にこの大舟戸から船に乗り新潟へ向かったのである。
文中の「キレーン」とは、スコットランドのスカイ島にある、玄武岩の崖と幻想的な峰で囲まれた山のことだ。バードは、雄大なライン川にも例えるほど「津川の急流下り」の景色を絶賛したのである。
『新訳・日本奥地紀行』(金坂清則訳)によれば、バードが乗った船は、長さが13.5m、幅が1.8m。船の前方と真ん中には米俵と木枠に詰めた陶器が置かれ、後部は藁屋根で覆われた客席になっていた。船頭がふたり、2種類の舵(かじ)を器用に操縦しながら危険な急流を行く。
津川から新潟までの72キロは8時間で下り、船賃は「わずかに30銭」とある。当時はそば一杯が1銭の時代だ。明治5年開業の日本初の鉄道(東京~横浜間)は、下等運賃でも37銭5厘、今の5,000円に相当するから、津川からの船賃はけっこうな金額だったことがわかる。
バードは、会津盆地の坂下から津川までの間、陸路(越後街道)を利用した。「山また山の旅だった。この悪名高い道は非常に滑りやすかったので、私の乗った馬は数度ころんだ。」と苦労した様子で、「立派な道路こそはこの日本が何よりも早急に必要とするものである。」とまで言っている。
今の坂下町片門(かたかど)に当たる集落では、200頭以上の駄馬(だば)が群れを成し、かみ合ったり激しく鳴いたり跳ねたりしていて、雇っていた馬子(まご)でさえ危険な目に遭ったという。おそらくそこは、今でいうトラックターミナルのような場所なのだろうが、過酷な山道をゆくためには、少々元気のよい馬のほうが役に立ったのかもしれない。余計なことだが、これだけの馬がいれば、坂下が桜肉の産地となった理由もわかるような気がする。
バードはこの悪名高い越後街道を、野沢、野尻、車峠と進む。その先々では、会津連邦の山並みの美しさに心を打たれたり、貧困にあえぐ住民の姿を憐れみの目で見たり、宿場の不衛生な環境に失望したりと、さまざまな感情を抱きながら、津川へたどり着いたのだった。
◇常浪川流域の縄文遺跡と御神楽岳◇
津川で阿賀野川に合流する「常浪川」の流域には、貴重な縄文遺跡が多い。
そのひとつ「室谷(むろや)洞窟(阿賀町神谷丙)」は、室谷川(常浪川の上流)の左岸が浸食されてできた洞窟で、縄文時代草創期(1万3千年前~9千年前)まで遡る遺跡だ。非常に珍しい形状の土器や石(せき)鏃(ぞく)(やじり)のほか、カモシカ・ノウサギ・ツキノワグマなどの獣骨が出土し、当時の生活実態や動物の分布が明らかになった。また、半環状配石に囲まれた成人女性の人骨が屈葬の形で発見されるなど、埋葬形式を知るうえでも貴重な遺跡として注目されている。
さて、この室谷洞窟の西にそびえるのが「御神楽(みかぐら)岳(だけ)」だ。会津美里町に鎮座する“会津総鎮守”伊佐須美神社は、この山を起源としているのである。
社伝では「崇神天皇10年に、諸国鎮撫の為に遣わされた大毘(おおび)古(こ)命とその子 建(たけ)沼(ぬな)河(かわ)別(わけ)命が会津にて行き逢い、御神楽嶽(岳)において伊弉諾(いざなぎ)尊と伊弉冉(いざなみ)尊の祭祀の礼典を挙げ、国家鎮護の神として奉斎した事に始まる」としている。その後、博士山(はかせやま)、明神ヶ岳(みょうじんがたけ)と遷座し、会津盆地の現在の宮地に鎮座したのは欽明天皇21年(560)のことだ。
オオビコとタケヌナカワが会津で出会ったことは、崇神天皇が各地に派遣した「四(し)道(どう)将軍(しょうぐん)」の話として『日本書記』に記されている。しかし、このふたりが御神楽岳まで来てイザナギとイザナミを祀ったとするには無理がある。伊佐須美神社の評判を上げるための関連付けなのだろう。
御神楽岳に伊佐須美の神を祀った本来の主役は別にいる。私は、崇神天皇よりかなり時代が下った6~7世紀頃に、日本海を渡って来た一団ではないかと考えているが、先ず、御神楽岳とはどんな山なのかをみてみたい。(御神楽岳でイザナギとイザナミを祀った一団を「伊佐須美族」と呼ぶことにする)
喜多方市生まれの古代史家・古田武彦氏は、御神楽岳に登った時の様子をこのように記している。(『真実の東北王朝』)
「山頂近くで、峰が分岐して、御神楽岳が二つあった。いわゆる、男女の山、陰陽信仰の形をとった山だったことを示す。日本列島各地に残る、旧石器・縄文以来の信仰形態だ。やはりこの山は、伝統深き信仰の山だったのである。山頂から少し降りたところに、縄文の祭祀遺跡があった。新潟県、つまり「越の国」側から上ってきた人が、ここで“山を祀った”その痕跡なのであった。」(筆者が一部抜粋)
御神楽岳は、まさに、太古からの信仰の地だった。伊佐須美族も一大決心のもとに“越の国側から上ってきた”のではないだろうか。
◇伊佐須美族の足跡◇
伊佐須美族の守護仏は、新羅の王家に由来する「双身(そうしん)歓喜天(かんきてん)」だった。“双身”の名のとおりふたつの性格を持つ。
御神楽岳は“男女の山”だと古田氏は表現したが、伊佐須美族はその山容に、国生みの神イザナギ・イザナミを見たのだろう。そして、祖国より請来した守護仏にその神々を重ね合わせて「伊佐須美の神」を祀った。一心に祈るのは、会津盆地での成功と一族の繁栄である。
世の中が律令制に移行するこの時代に、会津盆地北西部(宇内青津)の豪族は最後の抵抗を見せている。この厄介な一派を討ち払うことで、盆地南部での生活と信仰が保障されることが、中央政権との密約だったのだろう。
伊佐須美族は、新羅からの長い航海の末に“越の国”にたどり着いた。阿賀野川はこの時代でも越国と会津を結ぶ大動脈で、渡来人の往来も珍しいことではない。
一団は、阿賀野川をさかのぼると“津川”の川港に差し掛かった。そのまま本流を行けば、やがて“宇内青津”の豪族の拠点にたどり着くことになる。しかし、一団はあえて支流の常浪川をさかのぼり、室谷洞窟の辺りで船を降りた。そこから御神楽岳の山頂を目指した訳は、先ほど述べたとおりである。
時代は過ぎ、宇内青津の豪族が滅ぼされたと思われる事件は8世紀後半に起こった。そして10世紀の初めには、伊佐須美神社は会津郡における最高神の地位にまで上り詰めている。伊佐須美の神が、御神楽岳から博士山、明神ヶ岳、そして現在地へ遷座する過程は、まさに、“津川”から常浪川をさかのぼった、伊佐須美族の足跡といえるだろう。