「青」の地名が伝える会津の古代史
■4世紀ごろの会津盆地には、強大な豪族が3グループほど存在した。
その遺跡は、東南部の「一箕(いっき)古墳群」(会津若松市)、北東部の「雄(お)国(ぐに)山(さん)麓(ろく)古墳群」(喜多方市)、それに西部の「宇内(うない)青津(あおつ)古墳群」(会津坂下町から喜多方市)である。
私がはじめて会津の古墳を訪ねたのは、会津坂下町青津の「亀ケ森・鎮守森古墳」だった。
この2基の前方後円墳は同じ方向に並んで築かれていて、亀ケ森古墳は東北第2位の規模(全長127m)を誇る。
前方後円墳はヤマト地方から伝わったとされるが、会津の前方後円墳はヤマトにおとらず早い時期につくられている。
会津には太古から渡来人が多数押し寄せ、独自の統治体制が敷かれていたのだ。
昨年、この古墳群の最北部「灰塚山古墳」で出土した人骨を復元したところ、渡来系の顔つきだったという調査結果が示されたが、とても興味深いことだ。
(東北学院大文学部の辻秀人教授の研究グループは、男性の歯から抽出したDNAと全身の骨格から生前の全身像を復元した。)
■青津のとなり青木地区では、近ごろ「青木木綿」という織物が見直されている。
30年ほど前に一度途絶えたが、100年前の織機を復元し、今では現代風のバッグやストールなどを生産しているのだ。
青木木綿とは、会津木綿を代表する木綿繊維で、「会津青木木綿」「青木縞」ともいわれた。スッキリとした縞柄と染色の良さ、布地が厚手で丈夫なことが特徴だ。
おもに作業着や普段着がつくられたが、戦前の小学校や女学校の制服にもなったという。
青木地区で織物が盛んだった理由は、綿と藍の栽培が盛んで、染屋が多かったからだ。(参考:「青木木綿資料展示コーナー」資料)
棉(わた)の畑はあまり肥沃でないところが利用されたようで、栽培は簡単だった。
棉摘みは9月から10月にかけて行われ、「綿切り」(核と繊維に分ける作業)は、おばあさんの仕事だった。農家の仕事はいつも忙しいから、ほとんど夜なべ仕事となる。
「向いの山に雪(綿)が降る 手前の山にあられ(種)ふる」と歌いながら仕事を続けたという。
藍は江戸時代ごろから栽培されたらしい。毎年のように阿賀川の氾濫に悩まされたが、水にくぐっても困らない作物は里芋と藍くらいだった。
刈った藍は河原で乾燥させるが、夜露をさけるために出し入れするからとても忙しい。同時に菜がらしの栽培も行っていて、家族全員でも手が回らないほどだった。
「嫁に行くなら青津に行くな、あいとからしで殺される」とまで歌われたという。(参考:『会津坂下町史』)
■地名は歴史を伝えるといわれる。
宇内青津古墳群の「宇内」は、水の集まるところというアイヌ語だというが、青津と、隣接する青木の地名に「青」がつくことに注目したい。
民俗学者の谷川健一氏は『日本の地名』で興味深い指摘をした。
<沖縄では青の島は死者の葬られた島につけられる名前である。(中略)もし本土の海岸や湖沼に「青」を冠した地名があり、そこが埋葬地と関係があり、また海人の生活をいとなんでいるならば、南方渡来の民族が移動して、本土の海辺部に定着した痕跡をたしかめる手がかりを得るのではないかと私は考えた。>という。
日本各地に青の付く地名を探したところ、日本海沿岸では、青島や青海など青のつく場所では、縄文から古墳期の遺跡が多く、沖縄と同じ埋葬方法の痕跡もあった。
「青海神社」の青海は、せいかい、おうみ、あおみ、と読みがわかれるが、下関の六連(むつれ)島(じま)、福井県高松町、新潟県糸魚川市、新潟県加茂市に鎮座する。
<長門の六連島から東に移動した海人たちはその奉斎する神社を各地に鎮座し、越の国までたどったことが、その地名からうかがわれる(前掲書)>のだ。
谷川氏は、青の名をたずさえて渡来した人々を「青の一族」と呼んだが(『青銅の神の足跡』)、彼らは阿(あ)知使(ちの)主(おみ)を祖とした集団で、金属精錬に長けていたという。
会津の歴史家前田新氏は、会津への渡来者集団と「青の一族」の関係を指摘する。
<原住民アイヌの地に、弥生文化を持つ渡来集団が、三世紀の大和政権成立とほぼ同じころに、ヤマト政権とは別のルート、いわゆる日本海ルートから会津の地に侵入し、極めて高い当時の先進文化(稲作と金属)を持って、会津盆地のなかに数千人から一万人単位(大型古墳を十年ほどの歳月を費やして築造する人口規模)の小国家的な部族的社会を、盆地の周縁と平坦部に少なくとも三ケ所乃至は四ケ所に作っていたと考えられ、古墳群はその遺物と考えられます。(『会津・近世思想史と農民』)>という。
■宇内青津の地名は、はるか昔、ウナイの地(アイヌ語を話す人々の土地)に侵入した「青の一族」の痕跡なのだ。
一帯には古墳が集中するが、特に古墳時代前期において、古墳が継続的に築造された極めて珍しい地域だ。まさに、古代会津王国を築き隆盛を極めた青の一族の歴史が秘められた場所といえるだろう。
海人族は青海大明神を奉じて新潟まで北上した(前述)が、その出発点の六連島の対岸には「藍(あいの)島(しま)」がある。
その海人族は、越の国から阿賀川をさかのぼり会津へ入った。
会津の青の地では江戸時代に藍がつくられたのだから、時を超えた不思議な縁を感じてしまう。
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