【柳津の土偶状装飾付き縄文土器】
■向かい合う人型の装飾■
今年の一月、福島県柳津町の「やないづ縄文館」で保管していた土器片が、非常に珍しい形の縄文土器の一部だとわかり、全国的なニュースになった。
土器片は、約20年前に町内の池ノ尻遺跡から出土したもので、つなぎ合わせて復元した結果、国内最大級の「たる型深鉢土器」だとわかった(推計の高さは約70㎝、口径は37・8㎝、最大径は61・4㎝)。今から約5千年前の縄文時代中期に作られたという。
最大の特徴は、取っ手と思われる部分に互いに内側を向いて付いている、一対の人型の装飾だ。高さは17㎝、目と口は彫り込まれ、頭頂部には渦巻き文様がある。肩から腕、指まで細かく表現されているのだが、これほどの造形は非常に珍しいという。
さらに話題になっているのは、顔と頭部の形状が、長野で発見された国宝の土偶「縄文のビーナス」に似ているということである。
「縄文のビーナス」とは、1986年に長野県茅野市「棚(たな)畑(ばたけ)遺跡」で出土した土偶(国宝)だ。高さ27㎝、重さ2.14㎏。妊娠しているような豊満な体形は、縄文人が豊穣を願う気持ちを表現しているともいわれている。
棚畑遺跡は、霧ヶ峰の南斜面の山裾に広がる台地にあり、縄文時代中期には、黒曜石の交易拠点として繁栄した環状集落である。
環状集落とは、祭祀などに使う広場を中心にして作られた住居の跡で、この土偶もその広場の土坑(どこう)(小さな穴)に、横たわるように埋められていた。土偶のほとんどは、体の一部を意図的に破壊された形で発見されるが、この土偶はほぼ完全な状態で出土したことも謎とされている。
縄文のビーナスが作られた時期は縄文中期、つまり柳津の土器と同時代だから、この二つの関連性や両地域の交流などにも関心が高まっているのだ。
私は、6年前に茅野市尖石縄文考古館でこの縄文のビーナスを見たことがある。
縄文のビーナスは、全体的にどっしりとした土偶だ。頭部は、大きな帽子を被っている姿とも髪型だともいわれているが、てっぺんは平らで、渦巻き文様がある。
顔はハート形のお面を被ったような形で、切れ長のつり上がった目に、尖った鼻、小さなおちょぼ口がある。両腕は省略され、胸は小さいが、腹と尻は大きく張り出していることから、もっぱら妊娠した女性の様子だといわれている。
一方、柳津の人型装飾は、どちらかと言えば、背中から両手にかけての装飾に特徴があるが、その顔や頭には確かに共通点がある。それは、顔全体の輪郭と切れ長の目、頭頂部が平らでそこには渦巻き文様がある、ということだ。
■縄文のビーナスはトチノミの精霊■
人類学者の竹倉史人氏は、「土偶は植物(貝)をかたどっている」という仮説をもとに、さまざまな土偶の形状を、植物や貝に当てはめて考察した(『土偶を読む』晶文社)。その中で縄文のビーナスをどのように解釈したのかをみてみよう。
結論を先に言うと、縄文のビーナスのモチーフは、なんと「トチノミ(栃の実)」なのである。切れ長のつり上がった目や尖った鼻は「マムシ」の顔。頭頂部の渦巻き模様は、とぐろを巻いたマムシを表現しているという。
トチノミとは、トチノキ(栃の木)になる果皮の中にある種子で、縄文人は、秋になると落ちてきた果皮からその実を採集していた。
しかし、そのトチノミをすぐに持ち去ってしまうのが「アカネズミ」だった。縄文人はそれを苦々しく見ていたのだろうが、実はこのアカネズミには天敵がいた。それが「マムシ」である。マムシは生餌を好むが、特に好物としていたのがアカネズミだったのだ。
トチノキは日本原産の樹木で、東日本を中心に分布し、特に東北地方に多く見られる。トチノミは、縄文時代から重要な食糧源として知られ、まさに「日本のナッツ」とも言える存在だった。
縄文中期は人口が急増した時期である。それはまさに食糧調達が大問題になった時期で、縄文人たちはトチノキ林を人為的に作り出していたという。そして、トチノキの里山を守護する存在としてマムシが崇敬される存在になったという。
縄文のビーナスの豊満な下半身は、トチノミ自身のシルエットと、実が豊かに成り下がる様子を表している。つまり、全身が「トチノミ精霊の妊娠像」だと考えることができるというから興味深い。
ところで、縄文のビーナスがトチノミの精霊であるとすれば、それに似た表情の人型が付けられた柳津の土器には、いったいどんな意味があるのだろう。
■トチノミのアク抜き■
縄文中期以降、縄文人は食料として植物の実を栽培するようになった。しかし、クリやクルミはそのまま食べることもできるが、ドングリやトチノミにはアク抜きが必要だったのだ。
トチノミを使った「栃餅」は、今でも南会津の特産品として有名だが、その説明書きを見ると、「トチの実には強い苦みがあり、手間と時間をかけてアク抜きをすることで、風味豊かな栃餅が出来上がります。」などと書かれている。
このアク抜きはどのような手順かというと、<収穫したトチノミを2~3日水に浸す→熱湯に一晩置き固い表皮をむく→熱湯に入れ自然冷却→熱湯に浸し木(き)灰(はい)を入れる→更に灰を足し粘土状にして2~3日置く→灰を洗い落とし薄皮をはがす。>
気の遠くなるような作業である。もちろん縄文人がこれほど念入りにアク抜きをしたかどうかはわからないが、少なくとも、トチノミのアク抜きには、何度も煮炊きの工程が必要だったことは想像できるだろう。
ここで登場するのが、柳津の人型装飾の付いた「たる型深鉢土器」である。
水槽ともいえるほど大きいこの土器には、トチノミの精霊と思われる人型が施されている。縄文人の各家にこれほど大きな土器があったとは思われないから、おそらくそれは特別な日、トチノミの収穫を祈る祭事などに使われたのではないだろうか。
もちろん、それはトチノミを代表することで、クリやクルミ、ドングリなどの収穫も含めた祈りだったと思うのだが、なぜトチノミがそれほど大切に扱われていたのだろう。
トチノミには、健康のために有効な成分(サポニンやタンニン)が多く含まれているという。サポニンにはコレステロールや中性脂肪を抑える効果がある。また殺菌効果があり、かゆみや湿疹が改善することも確認されている。一方タンニンには抗酸化作用があり、古くから下痢止めとしても用いられ、カリウムも豊富で、血圧を安定させる働きもあるといわれている。
いうまでもなく、このような効能は現代になって検証されたものだが、おそらく縄文人は自らの体験として獲得していたのだろう。
また、トチノミは、2~3日水に浸したのちに1ヶ月程天日に干すと、何年も保存が可能になるという。ということは、柳津の村人たちが拾い集めた大量のトチノミをあの大きな土器に浸して、村人の共有となる保存食を作っていたのかもしれない。
■複式炉の活用■
只見川流域の柳津町には、河岸段丘上にムラを作り、集団で暮らしていた縄文人の痕跡が多く残っている。なかでも知られるのは、見事な火焔土器が出土した「石(いし)生前(うまえ)遺跡」(縄文中期から後期)だが、ここでは縄文時代中期の「複式(ふくしき)炉(ろ)」を伴う住居跡が見つかっている。
複式炉とは、『前庭部(両側面にだけ石を置く部分)+石組部(石組みの炉)+土器埋設部』という3つの部分で構成されている特殊な炉だ。石組部と土器埋設部では火を焚き、前庭部では火を使わない、ということ以外はどのように利用したかがわかっていない
単純に煮炊きするだけならば、このような複雑な炉は必要ないが、面倒なトチノミのアク抜き工程を知れば、この炉はまさにその用途にふさわしいと思えてくる。
例えば、トチノミを煮た後は、その土器を石だけの部分に置き、皮むき作業をする、もう一つの炉では木灰をつくるために火を起こす、はじめにトチノミを煮た炉では、再度土器に湯を沸かし新しいトチノミを煮る・・というように、一連の作業にはとても便利な炉だったのかもしれない。
■棚畑遺跡との接点■
古代人の移動距離は、我々の想像を超えるものだ。それは、石器や石材の利用範囲を見れば明らかである。
例えば、黒曜石。ナイフや鏃(やじり)、槍(やり)の穂先などの石器として、縄文時代の前の「後期旧石器時代(35,000年前~15,000年前)」から使われていたが、棚畑遺跡のある八ヶ岳一帯はその一大産地で、この地域で採れた黒曜石は、会津地域はもとより、北は青森県、西は奈良県まで伝わっていた。
また、柳津町を含む只見川一帯で採れる「泥岩(でいがん)」は、千葉県房総半島の遺跡の石材として利用されたこともわかっている。
古代にこれだけの交流があるのだから、直線距離で200キロ以上離れた長野と柳津で、同時期にトチノミの精霊が信じられていたとしても、何ら不思議ではない。
ところで、縄文のビーナスがほぼ完全な状態で出土したワケは謎のままだが、呪術師(シャーマン)のような役目を負っていたからこそ、特別に埋葬されたのかもしれない。
そして、例えば年に一度、棚畑遺跡の中央広場では、そのシャーマンを囲んだ盛大な豊穣祈願祭が行われていたと考えてみよう。
もちろんその情報は、物資の交易を担う人により広範囲に伝えられ、柳津の青年も参加することになった。祭りは男女の出会いの場所でもある。縄文人は狭い地域で血が濃くなる弊害も知っていたから、豊穣祈願祭はいつしか良縁祈願祭となり、ついに長野の娘は柳津へ嫁ぐことになった。
その若夫婦は、ふたりを引き合わせたビーナスへの感謝を忘れることはない。柳津の村人もそのパワーにあやかりたいと思い、ビーナスをモチーフにした土器を製作し、ムラの収穫祭を行うことになった。
トチノミが、ネズミなどに持ち去られるのは柳津でも同じことだ。さらに苦労して収穫したトチノミも、アク抜き工程で失敗すると台無しになる。収穫祭には大型のアク抜き用の深鉢を用意し、守り神として小型のビーナスを取り付けることになったのだが、単純にビーナスの縮小版では能がない。そこには、見事な火焔土器を作った村人のプライドがあった。
最終的に、その人型装飾は、深鉢の側面を飾る芸術的な曲線と一体化したデザインとして完成し、深鉢の内容物を見守るように取り付けられたのだ。一見して、縄文のビーナスには似ても似つかない独創的な装飾なのだが、マムシを表現した顔の表情と、頭頂部にしっかりとぐろを巻いている様子は、忠実に再現されている。
そこには、トチノミを守るという現実的な願いとともに、当時の蛇への信仰(脱皮して大きく成長する様や、飢餓に耐える強い精神力への礼賛(らいさん))が込められているようにも思える。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?