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【十一面観音と会津の古代仏教】

今年のゴールデンウイークこそは、会津の旅を楽しみにしていたが、どうにもコロナが収まらない。しばらく先延ばしにして、近場の名所旧跡を訪ねることにした。
久しぶりに鎌倉の長谷寺を訪ねると、名物のアジサイの開花には早すぎたが、多くの参拝客でにぎわっていた。本尊「十一面観世音菩薩」造立1300年を記念した「御足(みあし)参り」では、観音堂に安置された九メートルもあるご本尊の全身がご開帳になり、そのふくよかな足に、触れることができる。
志(し)納金(のうきん)を収め順番が来ると、私はその右足、妻は左足に手を添えてかがみこみ、住職が読経するあいだ願い事を唱えた。ほんの短い時間だが、特別な空間に身をゆだねるのもまた良いものだ。

鎌倉長谷寺観音堂

             長谷寺(鎌倉)

そういえば、一昨年の秋に奈良を旅した時にも、桜井市初瀬(はせ)の長谷寺(はせでら)で、本尊「十一面観世音菩薩」の特別拝観があった。こちらの観音様も十メートルと巨大だが、観音様を右回りに一周して、鎌倉の時と同じようにその足に触れて願い事をしたのだった。

奈良と鎌倉の十一面観世音は、どちらも「徳(とく)道(どう)上人(しょうにん)」の作とされる。徳道は、六五六年播麿国(兵庫県南部)の生まれで、容姿端麗、読書を好む聡明な少年で神童と噂されたが、十代に失った父母の菩提を弔うため、二十一歳で名僧・道明(どうみょう)との間に師弟の契りを結び出家したと伝わる。修行の後、七三二年に楠(くすのき)の霊木から十一面観音を刻み、これを本尊として奈良・長谷寺を開創すると、鎌倉の長谷寺をはじめ諸国に四十九ヶ所の寺院を建立したといわれる。

一方、鎌倉・長谷寺の伝承では、徳道は、楠の大木から二体の十一面観音を造り、一体は奈良・長谷寺の本尊とした。もう一体は、祈請の上で海に流したところ、15年後に相模国の三浦半島に流れ着き、それを鎌倉に安置して開いたのが、鎌倉の長谷寺だという。

奈良長谷寺本堂

             長谷寺(奈良)

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会津盆地の西、会津美里町の三重塔で有名な法用寺(雀(すずめ)林(ばやし)観音)の本尊、十一面観音も徳道の作とされる。「法用寺観音縁起」によれば、徳道は大きな霊木から三体の観音像を彫り上げるが、それは、会津の法用寺、讃岐の志度寺(しどじ)、そして奈良・長谷寺の観音像だとする。法用寺と奈良・長谷寺の観音像は、同じ霊木から造られたと伝えるのだが、縁起全体が、奈良・長谷寺縁起の要素を多く取り入れていることが特徴的である。

 『会津寺院風土記』(平成23年、会津高田町編)によれば、会津仏教は、高寺時代・法用寺時代・大寺時代ともいえる時代があったという。
高寺時代は、伝説の中国僧・青巌が、高寺山(会津坂下町)に庵を構えたとされる6世紀半ばのことで、確たる遺跡は未だに確認されていないが、私はすでにこのころ会津仏教の源流があったとしてもおかしくはないと考えている。

法用寺時代とは、八世紀より広がる観音信仰のことで、十一面観音を象徴とした密教的な性格があるが、法用寺には多くの行者が住み、近年まで三十三の坊が存在していたという。

続く大寺時代は、仁王寺(会津美里町)の薬師如来に始まるが、薬師信仰の広がりは各地の薬師堂などへ結びつき、医療・医術を持たない人々は、やがて、地蔵信仰へ広がっていったという。仁王寺は、大同二年(八〇七)徳一の開創とされ、安置される薬師如来は徳一の作と伝わるが、薬師如来を本尊とする慧日寺と観音菩薩との関わりも深い。
慧日寺資料館企画展の資料『慧日寺と観音さま』には、「約六〇〇年前の絹本著色恵日寺絵図には、観音寺、観音堂、馬頭観音が描かれており、徳一が開創や再興に関わったとされる寺院の中には、会津三十三観音の札所となっている寺院や観音菩薩を安置している古刹もある」とある。

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観音像には基本となる聖(しょう)観音(かんのん)のほかに、密教の教義により造られた変化(へんげ)観音というさまざまな形の像があり、なかでも十一面観音は、日本で最も古くから信仰されてきた変化観音像だ。一般には、頭上に十の小顔と阿弥陀仏をひとつ乗せている多面の仏像で、十一面をもってあらゆる角度から人々を観察し、救済してくれるという。
密教経典の「十一面観世音神(しん)呪(じゅ)経(きょう)」には、「つねに身に病なし」「財物や衣服、飲食が満ち足りる」「いっさいの敵を打ち破る」などの十の功徳と、「永く地獄に堕ちることはない」といった四つの果報が述べられており、頭上の十の顔が十の功徳を、頭上の阿弥陀如来が四つの果報を表すともいわれる。十一面観音がインドから中国を経て日本へ渡ったのは、六世紀の終わりごろだが、日本では盛んに製作され、主に山岳信仰と関わる数多くの寺院に残されている。

私が法用寺を訪れたのは、三年前の五月だった。名物、虎尾桜もちょうど満開で、一七八〇年に建立され現存する三重塔の風格と、そこから見下ろす会津盆地の田園風景がすばらしかった。
法用寺の創建は、七二〇年とされるが、八〇七年の火災により仏像を含め堂塔すべてを失い、翌年、徳一が現在の地に堂塔を再建したと伝わる。本尊の十一面観音も焼けてしまい、火中仏として安置されているが、徳一の再建後、新しく一本彫の十一面観音を二体奉納している。

秘仏だから私も拝んだことはないが、丸山尚一氏(仏像評論家)によれば、「ともに藤原期の一木(いちぼく)彫像(ちょうぞう)である。一体は胡粉(ごふん)(白色顔料)が塗られ(一五四・五センチ)一体は素(しら)木(き)の像(一四七・五センチ)。素木の像は、一見、神秘の表情を浮かべた、いかにも密教像らしい木彫像である。・・中略・・もう一体の像は、対照的に優しい感じの像で、丸みを帯びた白化粧の顔は眉、目、口に墨入れしていて、どこか神像を思わせるところがある」という(『東日本わが心の木造仏』)。

法用寺観音堂

           法用寺(会津美里町)

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『法用寺の歴史と地域文化1』(会津高田町地域文化調査会)には、雀林地区と法用寺の古代から中世を考えるうえで、近隣地を含めた古墳時代後期から中世の遺跡を抜きに語ることはできない、とある。
 法用寺から東へ約一キロの赤沢川沿いには、縄文中期の火焔土器が出土したことでも知られる「油田(あぶらでん)遺跡」がある。その範囲は二万平米にも及び、縄文時代の土坑(どこう)墓(ぼ)、弥生時代の土坑郡墓、古墳時代と平安時代の住居など多くの遺跡も発見され、大規模な複合遺跡であることが確認された。また、弥生土器の底に、稲のモミ跡や稲作祭祀に使われたと考えられる稲穂跡のついた土製品も出土し、「稲作文化発祥」と関わる大変貴重な発見であるという。

法用寺から西はいっきに山岳地帯になり、南会津から群馬、長野、さらに広範囲に山の民のルートが広がっていく。江戸期にも木地師の足跡などがあるが、古代から鉱物や森林資源を求める人々や修験者たちが渡り歩いた結果として、各地の神仏が会津に伝わることもあったのだろう。
法用寺は、会津の太古からの信仰と各地の信仰をつなぐ拠点としての性格があり、一方では、会津盆地の経済力が寺院の経営を支えていたといえるかもしれない。

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長谷寺の長谷(はせ)は、初瀬(はせ)とも書くが、これは奈良県桜井市の地名で、古くは「はつせ」と呼ばれ「泊瀬」とも書いた。
初瀬は、奈良盆地の東側に位置し、『万葉集』に「こもりくの里」と詠(うた)われた地で、「こもりく」は「隠国」と書いて「泊瀬」にかかる枕詞だった。当時、大和の平野部(奈良盆地の平野部)から見れば、隠れ里のような初瀬の山を古代の人はそう呼んだのである。

その初瀬の山に十一面観音を奉納し、長谷寺を開祖したのは徳道だが、師匠の道明が三重塔を建てたことが始まりともいわれる。
長谷寺に伝わる『銅板法華説相図(ほっけせっそうず)』(七世紀)には、三重塔のまわりを多くの仏菩薩が取り巻く構図が刻まれているが、白洲正子著『十一面観音巡礼』によれば、長谷寺の最初の本尊として、忘れることのできない遺品であり、これによって、長谷寺の草創が、白鳳期に遡ることが知れるとともに、塔の信仰が中心をなしていることがわかるという。

会津の法用寺でも、二百年を超えて現存する三重塔は象徴的であり、「法用寺縁起絵巻」にも三重塔が描かれているから、いっそう奈良・長谷寺との深い絆を感じさせる。

法用寺三重塔

             法用寺三重塔

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時代は遡るが、三世紀の大和において前方後円墳が造られると、ほどなくして、会津でも大型の前方後円墳が次々に出現した。奈良盆地にある最古級の前方後円墳「箸(はし)墓(はか)古墳(奈良県桜井市)」は、卑弥呼の墓だとする説もあるほど有名だが、それとほぼ同時代に造られた会津坂下町の「杵(きね)ガ(が)森(もり)古墳」は、形状もその六分の一だという。

大和地域に引けを取らない文化水準があったのだから、会津にはそのころから、人々の交流も含めて、大和地域と同質の価値観を持つ人々が多く住んでいたのだろう。会津盆地の平野部から見る西の山岳地帯を、まさに大和平野から見た「隠(こもり)国(く)」と重ね合わせて感じ入ることもあったのではないだろうか。

そう考えて奈良と会津の地図を見比べると、大和盆地は東西十六km、南北三十三km、会津盆地は東西十三km,南北三十二kmと、同じような規模だとわかる。また、南北を逆さにしてみると、大阪湾~大和平野~初瀬の地理関係が、猪苗代湖~会津盆地~西の山岳地帯に似ているような気もしてきた。
徳一が本格的な仏教を伝える前の会津に、仏教文化の中枢ともいえる場所がある。その法用寺は、「会津の隠(こもり)国(く)」へ誘(いざな)うように建っているのである。

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