【虚空蔵菩薩から古代会津を考える】
今年は丑年。年男となった私の守り本尊は「虚空蔵(こくうぞう)菩薩(ぼさつ)」である。
子供の頃、会津高田町(今の美里町)の祖父に連れられ、柳津の圓蔵寺へお参りした。
暗いお堂で、頭がよくなりますようにと虚空蔵菩薩に手を合わせ、撫で牛の頭もなでた思い出がある。今年もお参りしたいところだが、なかなか叶わない。
圓蔵寺に伝わる「一三参り」は、明治末期まで会津一円で広く行われていた。お寺の案内書には、「一三歳になった子供は新調した衣装を着て親と共に、陰暦三月一三日(現在の四月一三日)の虚空蔵菩薩の縁日にまいり、名物の「あわまんじゅう」を食べ、魚渕のうぐいを見て帰るのが習わしでした。大正時代には小学校六年生の遠足は柳津と決められ、学生全員で十三講参りをしたものでした。」とある。
平成の初めまでは、山形県の小学生も遠足で柳津を訪れることがあったというが、米沢市の小学校の中には、柳津の他に、福島市の満願寺(黒岩虚空蔵)に行く例も見られたという(佐野賢治氏『虚空蔵菩薩信仰の研究』)。
福島市の満願寺(黒岩虚空蔵)
黒岩虚空蔵の起源は定かではないが、約千二百年前に山中大納言植久公が、虚空蔵菩薩を安置したのが始まりとされる。ここにも撫で牛があるが、なにより印象的なのは、崖の上にある虚空蔵堂から見下ろす、阿武隈川の流れだ。その景色は、柳津虚空蔵から見る只見川と重なり、なにやら不思議なつながりを感じる。
日本文学者のドナルド・キーン氏は四十年ほど前に福島市を訪れた際に、黒岩虚空蔵に立ち寄ると、その美しい景色から、京都嵐山の虚空蔵を思い浮かべたと記す(『日本細見』)。
黒岩虚空蔵から見る阿賀野川
その京都嵐山の虚空蔵とは、法輪寺(京都市西京区)のことで、十三参りの始まりとされる場所だ。
平安時代のはじめ、清和天皇が数え年十三歳となり、成人の証として勅願法要を催したことが始まりだが、やがて、成人儀礼として虚空蔵菩薩に詣でて智恵を授かる行事として広がったという。
法輪寺の由来では、七一三年に行基(ぎょうき)が葛井寺(かづのいでら)として建立したことが起源で、八二九年には空海の弟子にあたる道(どう)昌(しょう)が法輪寺に改めたが、「西暦三百年頃にはすでに、三光明星尊をお奉りした葛野(かずの)井宮(いぐう)がありました。秦の始皇帝の子孫、融通(ゆうずう)王(おう)の一族が産業、芸術の繁栄、安全守護の一族祖神として信仰しております虚空蔵尊と深い因縁のあるこの葛野井宮を尋ね求めてこの地へ渡来し、彼等伝来の農耕技術を生かした農業をはじめ製糸、染織など中国の工芸を励むようになりました。」とある。
この辺りには、仏教公伝(六世紀)のはるか前に、中国からの渡来人(秦氏)による虚空蔵信仰の原型が存在したようだ。
法輪寺(京都市西京区)
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虚空蔵菩薩は「広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩」とされ、智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰されている。
また、その修法「虚空蔵求聞持法(ぐもんじほう)(以後「求聞持法」)」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えると、あらゆる経典を記憶することができるというものだ。
弘法大師空海(七七四-八三五年)は、奈良の大学で学んでいた十八才の時に、一人の修行僧からこの求聞持法を授かると、突然大学を辞め山岳修行に入る。土佐の室戸岬で悟りが開けると、名誉や財産に対する欲望がなくなり、出家を決意したのである。
その求聞持法を日本へ伝えたのは、道慈(どうじ)である。唐へ留学し善無畏(ぜんむい)から直接経典を授かったのだ。善無畏はインドの密教僧で、七一六年に長安へ入ると、玄宗(げんそう)(唐の第六代皇帝)により国師として迎えられる。最初に求聞持法を漢訳し皇帝を大喜びさせたというが、佐藤任氏によれば、「求聞持法が、記憶増進のためだけに真言を百万回唱えるような難儀な修法だったら、皇帝が喜ぶとは思えない。それは神薬の製法を述べたもので、服用すると素晴らしい体力と記憶力がつくから、玄宗は大いに喜んだのだ(『空海と錬金術』)」という。
求聞持法の最後には神薬の製法が記されており、それは古代中国の煉(れん)丹術(たんじゅつ)(辰砂(しんしゃ)などの鉱物や薬草で不老不死の薬を作ること)や、インドのアーユルヴェーダ医学のラサーヤナ(不老長生術・霊薬)にも関連する(アーユルヴェーダは、紀元前八世紀頃から伝わるインド伝統的医学)。つまりその修法は、ヨーガの精神的修行と神薬製法の両面から成るというのだ。
道慈が唐から帰国すると、求聞持法は弟子の善議(ぜんぎ)から勤繰へ、そして一八才の空海へと伝授された。空海がその後突然山林修行に入るのは、まさに、ラサーヤナ=煉丹術を修するため、あるいはその素材を探し集めるためだとも考えられる。
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奈良時代には、大和・吉野の比蘇寺(ひそでら)に自然(じねん)智(ち)宗(しゅう)とよばれる独自の集団があり、山林修行を行っていた。そこでは求聞持法も学ばれていたのである。
「日常は官寺に居住し国家の方針に従って経典の研究に励んだり、法要に携わったりする官僧も、経典の暗誦力を高めるなどの目的で、山林に篭もり、密教的な修行に勤しんでいたのである。その特異な治病の能力で天皇の寵愛を受け、法王という空前絶後の高位に昇った道鏡もまた、山林修行の経験者であったことは著名な事実である(薗田香融『平安仏教の研究』。)
空海ゆかりの地域である吉野・紀州・伊予西部地域は、中央構造線(断層)にあり、数多くの鉱山が存在するが、奈良時代の山林修行の場・吉野もまたそこにあった。
鉱物資源の活用は、もちろん神薬製造に限ったことではない。
「奈良時代から平安時代にかけては何度も都が移されたが、これはまさに土木工事である。寺院の建築でも、巨木の伐採・運搬・製材・建築・彫刻を必要とし、造像でも、鉱物の採集・精製・鋳錬・鍍金のための金属と技術が必要だ。これらの技術の多くは、渡来の技術者がもたらしたが、総合的に指揮監督できる指導者として、仏僧がいたのである(佐藤任氏)。」
空海はまさにその代表的な存在だが、鉱物資源の豊かな会津の地に、仏教王国を築いた徳一(法相宗)もまたその一人なのである。
柳津圓蔵寺の由来では、空海が唐の高僧から霊木を授かり、帰国後にその木を三つに分け海に投げいれたところ、一つが柳津に流れついた。知らせを聞いた空海は、さっそくその霊木で虚空藏菩薩を刻みあげると、徳一がその像を安置するために圓蔵寺を開いたとされる。これには、空海と徳一の宗派を超えた深いつながりが感じられ、なにより、霊木が漂着したとされる柳津一帯は、空海が理想とする修行の場(自然環境)だったと解釈できる。
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公式な仏教伝来とされる6世紀中頃に、仏教を導入したのは蘇我氏だが、半世紀にわたり政治の中心にいた馬子は最も熱心だった。
松本清張氏は、「飛鳥時代の造寺・造仏をはじめ、その他の土木工事は、蘇我氏の下にいた渡来工人の手によるものであり(日本人はその人夫的な仕事に従事させられていただけである)そのうちいくつかは胡人(こじん)(イラン人)の設計・監督またはそれらの助言によるものとわたしは推測するのである。(『ペルセポリスから飛鳥へ』)」という。
飛鳥地方には、この時代に製作された謎の石造遺物群が多く残る。「石人男女像」などの顔が日本人離れしているのは、これが飛鳥に移り住んだイランの人々だとすれば合点がいく。
仏教は、中央アジアや中国などの宗教・文化と融合しながら日本へ伝来した。
たとえば、中国・唐の時代に盛んだった西方起源の宗教に、キリスト教ネストリウス派・ゾロアスター教・マニ教がある。
その一つゾロアスター教は、交易のために渡ってきた多数のイラン人によりもたらされた。火を崇拝するところから「拝火教」とも呼ばれ、密教の護摩壇(ごまだん)との関係なども指摘されている。なかでも儀式で使う神酒「ハオマ酒」は、中国では不老不死を願う仙薬と並び重宝されたというし、日本でも治病などに利用された可能性もある。さらに、彼らの建築技術が、飛鳥時代の宮の造営に貢献した痕跡も残るのである。
二千五百年前に北インドで発生した仏教が、日本へ伝わるまでに約千年もかかったというのはあくまで公式見解であり、その間、民間レベルで伝来した形跡は日本各地に残る。
イスラム教・キリスト教なども驚くほど早い時代に、あるいは形を変えながら日本へ伝来したと考えられるが、太古からの人や物の流れをみれば、それはむしろ当然のことだ。
朝鮮半島や中国からの渡来人とは、その地域を経由してやってきた人々のことだから、さらに西方の人々の渡来を考える必要がある。飛鳥・奈良時代には渡来系の僧侶が多かったのだから、中には少し風貌の違った僧侶がいたとしても何の不思議もない。
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会津坂下町には高寺山伝説がある。欽明天皇元年(五四〇年)中国・南朝の梁(りょう)から来た青(せい)巌(がん)という僧侶が、山に庵を結んで、里の人々に仏教を説いて回ったというものだ。
その真偽を探るための発掘調査は一昨年から始まり、九世紀頃のものとみられる山寺の跡や、土器などが見つかった。護摩壇と思われる跡は、一種の宗教儀式が行われていたと考えられ、山寺跡としては東北で最も古い可能性もあるという。
徳一の頃の山林仏教の跡であることは分かったが、残念ながら、六世紀中頃までさかのぼることはできなかった。しかしこれで高寺山伝説が否定されたわけではない。
会津には太古からの多くの渡来人がやってきた。6世紀中頃の会津にも、日本海を渡ってきた人々が大勢いたはずだが、その中でも、国名と名前まで伝承される人物がいるという事実は重い。
青巌には庵を作る技術があった。同行した僧の数人は、笹山(猪苗代湖西岸)で製鉄事業を指導したとも伝わる。かなりの技術力を持った僧侶とその集団は、おそらく会津の豪族の招きがあったからこそ、遠く海を渡りやってきたに違いない。
さて、豪族と渡来の技術者の関係で考えれば、先述の蘇我氏と胡人のことを思い出す。青巌が旅立った国、梁の皇帝・武帝が禅問答を交わした達磨大師(ダルマ)は、波斯(はし)国(こく)(ササン朝ペルシア)生まれの胡人だとも伝わる。高寺山の「青巌」も、少し青い眼をした僧侶だったのかもしれない。
高寺山(会津坂下町)