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(検査入院2日目)物申す!もしもし、こちら患者です。
今、わたし(もか)は検査入院中だ。原因不明のめまいを精査するためである。
備忘録もかねて、詳細を記しながら"ちゃんと"テーマ"に沿って感じたこと、思ったことを書き連ねていきたいとおもう。
ただの日記や闘病生活について読みたい人は、アメブロに飛ぶことをおすすめする。ただし、こちらには弱音や愚痴も含まれるので要注意。
さて、本日は"コミュニケーション能力"について話していこうと思う。
コミュ障と言うけれど
近年、"コミュ障"という言葉が簡単に耳に入ってくるようになった。
よくよく聞いてみると、「わたしってコミュ障だからさあ〜」なんて社交の場で自己申請する「コミュ障とは?」と思ってしまうようなタイプもあれば、「あいつってコミュ障だよな」だなんて人を馬鹿にするタイプのものもある。
ちなみに本来の"コミュ障"とは、医師によって診断されるものであり、軽々しく使うべきでないとわたしは思っている。
一般的には「コミュニケーション症群/コミュニケーション障害群」と呼ばれるものに分類されるらしい。
なんでもかんでも自己申請で通るのであれば、なんならわたしだって自分自身を「コミュ障かも?」なんて感じる場面はいくらでもあるものだ。
そうやって多くの人が「コミュ障」と言うけれど、そもそも「コミュニケーション能力」ってどういうことだ?
そんなことを実体験とともに、考えてみる。
検査入院1日目の話
今までだって散々検査はしてきたが、いまだ原因不明のめまいに悩まされるわたし。車椅子に乗る機会も増えてきて、(検査)入院時もぐったりとした状態だった。
ただしわたしの場合、それなりに無理をすれば話をすることはできる(立ったり歩いたりは難しくとも)。
もともと記者なんかもやっていたので、口頭説明は得意なほうだとも思う。
そんなわたしが、母に付き添われて入院したその初日。
(主治医不在のため)同じチームの先生が挨拶をしてくださった。ここまではいい。初の入院で緊張していたから、ありがたいことだ。
ただ、名乗ったあと、笑顔で「お願いします」と言ったわたしに「なにヘラヘラしてんの?」と突然のアッパーをかましてきた。
その瞬間、わたしの顔がスッ…と真顔になったことは当然のことである。
そこで終わりかと思いきや、さらに先生はわたしを見たあと、「別に大したことはなさそうだけどねえ…」と笑ったのだ。
問診も触診も、精査すらはじまっていない段階で。車椅子に乗っているわたしに。ちょっとムッときて、「かれこれもう1年半はこんな感じなんですけどねえ」と。
正直、腹が立った。
そりゃあわたしに医療のことはわからない。そこは従うしかないし、それが当たり前だと思っている。感謝もしている。
でも、患者の「つらい」「しんどい」気持ちを踏みにじる権利はあるのだろうか。そんなことを考えながらも、わかっていた。
めまいは自覚症状。診断は難しく、わたしなんかの場合は激しいめまいがしていてもちゃんと会話になるから、「本当にめまいしてる? 大袈裟では?」と思われるのだ。
実際、実の母もつい先日、わたしが膝から崩れ落ちるのを見るまで、けっこう悠長なことを言っていた。
だからその先生に言われたことがショックで、「この先生に診てもらったところで治らない!」とも思ったし、この先の入院生活もかなり不安になったし、さらに言えば、病室に入ったあとは悔しさのあまり泣きそうにもなった。
そんなことがあっても時間は進む。
立ち止まって考える
翌日(つまり今日のことだが)、主治医の先生率いるチームがベッドまで挨拶をしに来てくださった。
そんなときも、彼はわたしを一瞥しようともしない。
ここで「失礼な話だ!」と憤慨できれば簡単だが、彼の研修医に対するやたら先輩風を吹かせた態度を見て、一度立ち止まってみる。
「みんなめまい持ちの人には最初同じような簡単な質問すんだよ(笑)ま、それぐらいじゃなにもわからないんだけど(笑)」
研修医は苦笑いだ。だって目の前にはわたし(患者)がいるのだから。
そこでピンときた。
彼はもしかしたら、フレンドリーな人を演じていたのかもしれない。「大したことなさそうだけどねえ」と言って、「それならいいんですけどねえ」と笑ってほしかったのかもしれない。
たぶんあれは、彼なりのジョークだったのだ。
聞き手側からはまったくジョークに聞こえないジョーク。会社にもひとりやふたり、そんな人がいないだろうか?
フレンドリーと失礼は紙一重
じゃあ言われたことを忘れられるかといえば、たぶんわたしは一生忘れないし、検査入院が終われば病院を変えるかもしれないとも思う。
大切なことなので言っておくと、これは愚痴ではない。
つまりなにが言いたいのかというと、フレンドリーと失礼は紙一重ということだ。
本人は軽いノリで言ったのかもしれない。でもわたしはすごく重く受け止め、できればもうその先生とは話したくないと思った。
例えば、テレワークの影響を受けて「リモハラ」という言葉ができたのは記憶に新しいことと思う。
テレビ会議中、男性の上司が女性の部下に「部屋見せてよ」と言っただとか、そんなニュースが流れていた。
上司はもちろんジョークのつもりだったはずだ。それがハラスメントにあたる可能性があれば、誰もそんなリスクを背負ってまで無駄な発言はしない。ならば、「そんなつもりはなかった」「冗談だってことぐらいわかるだろ、普通」という感じなのだろうか。
でも、多くの女性からすればこれは深刻な問題に感じられると思う。(もちろん、男性と女性が逆の場合もしかり)
例えば、業務上の話しかしたことがない相手が突然笑いながら「今日、君(あなた)の家泊まっちゃおっかな〜」と言い出したらどうだろう。
わたしなら冗談だとわかっていたとしても、「気持ち悪い」と思う。
あの先生も、そんな感じだったのかもしれない。
これがまた、医療とは関係のない話であれば違っただろう。
けれど、彼は医療のプロなのだ。医者に「大したことないんじゃないの」と言われたら「そんなことありません」と言う以外、どうしようもなくなる。
人にはパーソナルスペースがあって、そこにずかずか土足で踏み込まれると違和感を覚えたり嫌悪を感じたりするのだ。
人と人との間にはある程度距離感が必要なのだと思う。
まあ、この際、最初からタメ口だったのはいい。わたしは年齢の割にスッピンだと幼く見られがちだから、そんな経験はいくらでもある。
フレンドリー、という言葉を考えたとき、少なくともそこにネガティブな情は存在しない。けれど、本人にそのつもりがなくとも、相手が嫌だと感じた途端、それは失礼なことに早変わりする。
とにかく、あの先生の真意は計りかねるが、何人もの人に取材を経験してきたことからわかることがひとつ。
ほどよいさじ加減のフレンドリーさを見せるのには、かなりのコミュニケーション能力がいるということだ。
コミュニケーション能力とはなにか
わたしはこの大部分を「傾聴力」が占めていると考えている。
相手の話をうまく引き出し、安心感を与える。ただ受け身で話を聞くだけでも駄目で、自分が話しすぎてもうまくいかない。
だからわたしは傷付いた。
例えばあの先生が一通りの問診、触診、検査を終え、信頼感を得て、結果が出たあとで「大したことはなさそうだけどねえ」と言ったなら、またイメージは違ったかもしれない。
なにも知らないうちから、なにも話していないうちから突然「大したことはなさそうだけどねえ」と言われれば、当然「まず話を聞いてから判断してくださる!?」となるわけだ。
つまり、「傾聴力」はコミュニケーション能力を養ううえで欠かせないスキルなのである。
現に、取材をよくしていたころは相手が緊張していたりすると、わたしはあえて取材内容とは別の話題からはじめたりしていた。(取材慣れしていない方たちだった場合)
例えば趣味の話。例えば好きな食べ物の話。家の話は人によりけりなので、相手から話題に上がればそれに乗ることもあった。
それで緊張がゼロになるかはわからない。ただ、少しでも互いについて知っておくと、その後の取材がスムーズに進むことは間違いなかった。
もちろん記事にはしないが、なかには「あ、これオフレコですよ?」なんて冗談めかしてプライベートな話までしてくれる人もいる。
人の話を聞く姿勢。傾聴力。そこから得た信頼感。
コミュニケーション能力がある人というのはすべからく、そこらへんが非常にうまいと思う。
ちなみにわたしもまだまだ勉強中。
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