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嫌われても諦める

 昨日読んでいた本の中の「嫌われても諦める」という言葉が、スッと心に落ちてきたのでそのことを書きます。

 日常生活の中でこの人は気が合うけどこの人は合わないな、ということが当たり前にありますが、仕事の関係の付き合いの中でたまに「私はあなたが嫌いです」というのを私にわかるようにアピールしてくる人がいて、そういう人が私は嫌いです。しかしその人が私のことが嫌いなのはどうしようもないことで、私が変えられることではないし、気にしなければいいだけですが、気になってしまいます。

 以前『嫌われる勇気』という本についてnoteに書いたことがあり、だいぶ前に書いたのですが、今でも時々読んでくださる方がいます。その時に自分ができてないなと思うことを書いたのですが、今もできていません。
「その時に考えていることを書く」ということが私がnoteを書く理由でもあるので、そうやって考えたことを書き続けていきたいと思っています。

 そのnoteの中で本から引用している部分は、今もいつも頭の中にある部分です。

「10人の人がいるとしたら、そのうち1人はどんなことがあってもあなたを批判する。あなたを嫌ってくるし、こちらもその人のことを好きになれない。そして10人のうち2人は、互いにすべてを受け入れ合える親友になれる。残りの7人は、どちらでもない人々だ。 このとき、あなたを嫌う1人に注目するのか。それともあなたのことが大好きな2人にフォーカスをあてるのか。あるいは、その他大勢である7人に注目するのか。」

 noteの中でも「10人のうちの1人の私を嫌ってくる人」に注目してしまうことを嘆いていますが、今もそこは変わってないです。

「われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない。」他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」」

 この部分も忘れないようにしたいです。いつも忘れてしまって不満を抱えている気がする。

「自分の信じる最善の道を選ぶこと」

 この言葉も時々自分に向けています。それは最善と言えるだろうか?と。最近仕事で最善を尽くせているかな?

 冒頭の「嫌われても諦める」という言葉は、今読んでいる最果タヒさんの『「好き」の因数分解』の中に出てきた言葉です。つながって書かれているものの一部分を切り取ることは、誤解を生んでしまうこともあり、あまり良くないことのように思えますが、全文は掲載できないので一部分だけ紹介します。
 タヒさんは「私はこういう人間です」と打ち出した「キャラクター設定」に誠実であることが、人間対人間として仕事を進めようとする仕事相手には、社交辞令よりずっと大事な礼儀であると思ってらっしゃって、そのためには「キャラクター設定」はできるかぎり、素と近づける、無理はしない、嫌われても諦める、ということにしているそうです。この3つの言葉を読んで私は、自然な感じがすごくいいなぁと思って、特に3つめの「嫌われても諦める」が心にスッと落ちてきたと感じたのです。

 私がこれからこうしようと決めたことは、『「キャラクター設定」はできるかぎり、素と近づける、無理はしない、嫌われても諦める、』を実践して、noteでも仕事でも日常生活でも自分らしくいようと思いました。

 

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