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月曜モカ子の私的モチーフvol.220「ボツ原稿その⑴/古代アトランティスの件」 文 ナカジマモカコ

もしかしたらいま、前世に今世が浸食されている? そう思ったのは古代アトランティスの葬式の日だった。家には白い花が飾られ、天狗舞をそこにたむけた。何を思ったかわたしはその日黒いタンクトップを着ていたし、大事な友人にとって、天狗舞は弔いの酒なのだと、後日知った。わたしが黒を身につけることはあまりないので、葬式と言われたらそうだったのだろうと思う。

 今回、これまでになくがんこエッセイ、苦戦している。だいたいがんこエッセイと言うのは、ざっくりこんな感じのことを書こうか、ってことを2日〜3日ほど頭の中で、こねこねこねて、なんとなくまとまったときに、一気にばばん、と書く。わたしが「書き出し」と呼んでいるその作業にはだいたい1時間もかからない。それくらいの「軽さ」で取り組まないと毎月更新するみたいなことが難しいから。そんなナカジマモカコ、目下今月のがんこエッセイに大苦戦中。これまでにないほどの時間を下書きに費やし、書いては消し書いては消しを繰り返している。こんなこと、作家になる前も作家になってからも初めてかもしれない。当初、今月号は根津遊郭のことを書こうと思い、しかも夏の増刊号にしようと思ったので深夜に5時間くらいかけて「わたしは根津遊郭の切見世の跡地で商いをしている」という、いつもの2倍3倍あるエッセイを書き上げた。6月の頭のこと。切見世というのは遊郭の中でも最も酷い、最下層の女郎屋を表す言葉。いつもより早く着手したのに。稲荷神社案件の流れで吉原のカストリ出版から取り寄せた古い地図を元にイーディの場所はここいらだと定め、エッセイを書いた。しかし次の日、隣のタナベフドウサン、事務所で鷹と鷲と梟を飼っているタナベフドウサン、今となってはイーディ&我が家の不動産であるタナベフドウサンにその地図を持って行ったら、タナベのおっちゃんも、例の狐を皮切りに遊郭のことを、調べていて——そもそもこの狐案件は、タナベさんとこの鷹が暴れて、訝しく思ったタナベさんの奥さんが監視カメラを覗き、白い狐の化身を見つけたことに端を発する——ねえちゃんよく見つけたけど多分この地図は通りが一本間違っている、ということになった。つまり根津遊郭は不忍通り(大通り)沿いではなく、大通りに並行して走る裏通りのはずなんだと。

歴史ってなんなんだろうか。
誰かの作った地図一つで、イーディは切見世の跡地にも、張見世の跡地にも、通り向こうの職人街の跡地にもなる。ささやかな記録や記憶のスクショのようなものから空想を膨らませて物語るのが小説家だけど、広げた遊郭の古地図を元に“かつて”に想いを這わせたその分「筋が一本違っている」という言葉は、わたしにやるせなさを与えた。イーディが、切見世か張見世かで全然その跡地に立つわたしの心持ち違うんですけど。だってそこで生きていた女性たちの暮らしぶりも全然違うからね。お神酒のあげかたとか手を合わせる祈りの宛先も違ってくるんですけど。わたしの昨日の5時間は一体なんだったのか。まずここでわたしの今世の一部分が根津遊郭という前世(歴史)に侵食された。原稿は当然ボツな気分、今は取り出して直す気がおきない。

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なんていうかなあ、メッセージや啓示(エピファニー)、前世とか前世の記憶とか、そういったものがもし存在するのだとしたら、それはその魂の「今世」のためだと思うんだよ。つまり今世の魂は「前世の使いっ走り」のために存在してるわけでもそのために重力(肉体)が与えられてるわけでもないから、なんていうかな、今世のわたしの魂や肉体や時間をそれらの案件に割くことが今のわたしの人生や、わたしのこれからを反映するものなら、わたしはその「誰かからのメッセージ」を聞きたいと思うけど、いわゆる前世のカルマとか失われた歴史の修繕みたいなことでわたしにメッセージが送られてくるのだとしたならわたしはそれらのハッチを閉めたいと思う。

映画「TENET」のようにそれが世界救済なのだとしたら頑張った方が良いのかも知れないけど、個人的な思い遺しだとしたらそれは負の連鎖だよね、ステージママが自分の叶えられなかった夢を自身の娘とかに投影して、その娘が母親の人生を代わりに生きるような。そういうことを「生まれ変わって」までやるほど無意味なことはないよね? だって重力(肉体)には時間の限りがあって、我らは刻一刻、死に向かって生きている。現在時刻の魂の所信を抱きしめ太く生きないと。恋せよ乙女。

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過去や歴史というものに敬意はある。前世というものにも敬意があるし、自分はなぜ「魔女と金魚」という小説や「月子とイグアナ山椒魚」というような短篇を書いたのかという理由を知りたい。小説家というものはモチーフ(そういったもの)に引きずり回される生き物なのだろう。だから古代イスラエルのことや古代アトランティスのことも調べ、ギリシャにも行った。何かを確かめに。サントリーニの島の裏側、黒焦げの溶岩の隙間でエーゲ海にもぽちゃんと飛び込み、サントリーニは夢の島じゃない、ここはいつまた噴火するかわからない、絵本「ぼくはイスです」的な恐ろしい場所なのだと知った。黒焦げの島(心)に白粉(おしろい)を塗って外から人が来るのを待っている。そういう意味ではサントリーニは花魁に似ている。クレタのクノッソスもそう。偽りと秘密が埋まっているところにはもっともらしい作り話が添えられている。あの場所は多分宮殿ではない。あれはローマのコロッセオにも似ていたけれどコロッセオは宮殿ではなく監獄だったのだから。だから古事記や日本書記も信じていない。どうして誰かが誰かを殺して、そこから神様が生まれるの。学校で習った道徳の授業と反比例しすぎてるし。けれどそれを紐解いたとて一体どこに繋がるのだろう。何かが解決し、世界はよくなるのだろうか。不思議な偶然の理由をわたしはいつも知りたいけれど、それはわたしの今世のためである。わたしはなぜその存在を知らない時にアトランティスと思しき王国の物語を書いたのか。知りたい。今のわたしのため。前世のやりのこし、を片付けるためではない。そんな思いが爆裂して、今年の1月、わたしはレディオを始めた。

↑レディオイーディは現在、常連で映像ディレクターのユウと一緒に黎明期最終回を製作中です。タイトルは『ある季節の終わり』映像のプロが参戦したらこうなるんだっていう化粧直しをお楽しみに!

 1月から4月まで頑なに続け、今一旦最終回を迎えようとしている「レディオイーディ」その一連が、長く目の前で見聴きしていられない作りのものであることはわかっている。同時にそこで言い続けたことを今も言いたい。初回からわたしが一貫して言い続けていること。ユーミンじゃないけど、ある“きぼう”の中に“やさしさに包まれて”目覚めれば目に映る全てのことはメッセージで、しかしそれは「メッセージそのもの」に意味はなく
「自分がそれをどう捉えるか」にだけ意味があるということ。

抽象的でわかりにくいかも知れないけど、わたしはわたしのために、メッセージの送信者を時空のどこかの座標にいる自分自身と定義した。わたしがわたしに送るメッセージなら、妙ちきりんな事象や承服しかねる出来事も、きっとわたしの「今」にとって、役に立つことのはず。

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(2016年、黒焦げのエーゲ海にぽちゃん。この時の記憶が「燃えて、ギリシャ」の歌詞になりました)

過去に対して敬意がある。歴史に対しても。だから店の前に稲荷神社を見つけておいて知らん顔できないから、その歴史を調べて、常連さんたちともその地図を片手に根津遊郭に想いを馳せた。わたしが大切にしていることに寄り添い、稲荷鮨を買ってきてくれたり饅頭屋を教えてくれたりする常連さんたちに本当に感謝している。ここで昔生きた人たちはどんなだったかな? どんな風に一日を始めてどんな風に終えたのかな。どんな導線でこのお稲荷さんに手を合わせ、どんな願いごとをしたのかな。そんなことを思いながら、お通しの厚揚げを白狐にも供えようと稲荷に向かうとき、わたしはいつかの誰かとその狭い雑草まみれの参道ですれ違っている。交差の瞬間、互いはきっと時空を超えた挨拶を交わしている。

「いまからですか」「はい、いまからです」
「疫病が流行ってるのね」
「ええ、でも随分女が生きやすい世にはなりました」



そんな時に雲間からふと射す光を、わたしはメッセージだと思う。なんか、そういったものだと思う、メッセージというのは。交わしあうけど互いの生き様に干渉はしない。

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(あともうちょっとあります、ここいらで休憩して栞珈琲でもお飲みください。簡単に作れる水出しがオススメです。あからさまに広告ね 笑)

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2015年から2018年にかけて、ゆるやかに落下し、2019年から2022年に向かって、ゆるやかに上昇している、それがわたし。

落下していくときというのは、下降開始以前の頑張ってたポイントがあるので(堕ちててゆくなあ……)と思いながらも、割とすぐには沈まない。
体重とかもそうだよね、ドカ食いしてもすぐには太らないけど気づけば簡単には痩せられないくらいに太ってしまっている。なので水面に向かって燦然ともがき始めても、水底のようなところから始まるから思ったよりも肉体の上昇には時間がかかる。2021年現在、猛然とがんばりだして2年が経過。
このころがいちばんしんどい。自分の感覚や確信と現状がマッチしない。
でもあと一歩のところまで来ていることはわかっている。あと少しなんだよ、もう少しで、幼い頃に思い描いた景色がひとつ完璧に完成する。
現実が予感に追いつく。その感覚だけは、確かなの。

このもどかしい感じは26歳くらいから28歳くらいの間にも経験したから知っている。何かが近づいていることだけは確信している。だけどそれが何かはわからない。2008年の年始に、その頃時々泊まりに行っていた年上の、彼氏ではないけど彼氏みたいな状態の男の人の家でその人が寝ている間に眺めた2008年の手帳の感じを今でも忘れない。その頃わたしはどこにも出番がない女優志望、年も28歳で女優を目指すにはギリギリ。9歳年上のその人は割と有名なDJだった。なのにわたしは、漠然とこう思っていた。近い未来にはわたしの方が名が知れてしまうから、この関係は長くは続かないだろうな。

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その時手帳のマンスリーページを1月から9月頃までパラパラとめくって、
ふとこう思ったのだった。

この退屈な人生を、変えたいな。

この煮え切らない日々のまま30歳になるのは、あかんのかもしれん。

こういう時の感じって「決意」より「予感」に近い感じ。本当に“ふと”思いつく感じ。そうだ、9月あたりに芝居を打ってみようか、久しぶりに作/演出をして。そうだ、その稽古が忙しくなるより前に小説を書いて賞に出してみようか。わたしは女優になりたいけれどみんなは書くことが向いてるっていうんだし。いっそのことこの2つを天秤にかけて、天の采配を待ってみよう。そしたら来年、どんな29歳になっても、何かをやり遂げた気持ちで30代を迎えられるのではないかしら。

あの時の感じの、何かもっと強い感じが、今、また来ている。
その感覚が先月号わたしに「バカ売れ」と書かせた。けれどあれはちょっと言葉が違った。ちょっと違うなあ。あれってまるでわたしが「売れたい」みたいじゃない。わたしが言ってるのはさ、なんか多分、すっごい売れてしまうよ、って感じなんだな。笑。でもさ、それが果たして執筆なのかどうかってすらもわからない。28歳のわたしはあのとき女優として名が売れると思っていたんであって、まさかなんとなく「書いてみようか」って書いたものがその年賞を獲ってデビューするなんて、思ってもみなかった。だからもしかして小説ではないのかも。8月から始める新しいレディオが大当たりするんだったりして。もしくは突然わたしの店に、ノーランがやってきて「君、僕の次回作に出ませんか?」とか? 笑。
つまりわたしが感じる予感と予兆には具体性も根拠も全くない。

(↑笑)

予感だけが日々高まっていて、なのにわたしの6月は芸術やエンターテイメントとは全く無関係の“スピリ”な案件に引きずりまわされて荷ほどきすらままならないでいる。感覚と現状が伴わない。わたしってもしかして狂人だろうか。狂人になりたくないので大潮を無視してこの案件から離脱したい。
そして新作の改稿だけに集中したい。なのに毎日あられもない方向から大潮はやってくる。今世のわたしを必死で守って生きているのに、前世もといアカシックはわたしを追いかけすごい勢いで仕留める。抗えない。結果わたしは花魁の夢を見、美術館では少し距離を置きたいと思っていた「人魚」と遭遇した。手塚治虫の「海のトリトン」などを読んだことがある人はわかると思うけど、人魚というのは古代アトランティス人のことを指すのである。最近では「アクアマン」というアメリカ映画がとってもポップにそれを踏襲している。

夢の中で花魁だったわたしは割と売れていて、後進の遊女に食事をご馳走しようとしたら、やっかまれて凄まじく高いフレンチみたいなレストランを指定された。自分はその座標を生きる花魁なのに心のどこかで(この時代もレストランにヒエラルキーがあったんだなあ)と思った。美術館では、鏑木清方の「妖女」という人魚の屏風絵に衝突。泉鏡花へのオマージュだけあってどの立ち位置に立っても妖女と目があわない。一体どの場所に立てばこの人魚と目が合うのだろう、目が合ったが最後心臓ごと食べられそうな怖さの絵でもあるけれど。その構図に心惹かれて大小たくさんポストカードを買ってしまったけど同時に心の中でこうも宣言した。

(わたしは今世の人生の指標や目的を大切にしたいですから)

『わたしが古代アトランティスの末裔であろうと書紀であろうと、わたしが今年放つ新作の邪魔だけはしないで遊ばしくださいませ。過去への協力は惜しみませぬ。ただしわたしの「今」と「未来」を阻むことだけはなさいませぬな』

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 少し離れたところから何とか妖女と目を合わせようとする奇女を、監視委員はそっと見守る。わたしはこれ見よがしに安い下駄をしずしずと小さい八の字に描きながら裏に回った。
妖女の絵の裏側にはキャバレーの楽屋巻物が展示されていて、わたしは今日ここに、呼ばれたと言っても過言ではない、ある意味青線、ある意味キャバレーの女主人なのだけど、今日だけは、わたしをこの美術館に吸引したものは“前世(アカシック)”ではなく“重力(グラビティ)”だと信じたい。
前世の残業のために今世があるのではないから。わたしは今世を悔いなく生きたい。たとえ結果的には人魚のポストカードを何枚も購入し真っ先に玄関に飾った上、翌日我が家に来たベスフレ(姪)と一緒に再びその人魚を観に行くことになったのだとしても。

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「ねえこの人魚、手に何か持っているよ」
ポストカードを見つめていたベスフレが目ざとく指摘した。「モカちゃんそれ全然気がつかなかったわ」と言いつつポストカードでは分かりにくかったので二人で現場検証をすることにした。再び訪れた美術館の屏風絵の近くに行って眺めると果たして人魚は手に何かを持っていた。よくよく見るとそれはカナリヤのような色の綺麗な小鳥だった。魚が鳥を持っている。不思議な絵。でもその絵に託されたメッセージを掘り下げて考えることは今、あまりしたくない。

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<モチーフvol.220「ボツ原稿その⑴ /古代アトランティスの件」 」2021.06.28>

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☆モチーフとは動機、理由、主題という意味のフランス語の単語です。
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