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月曜モカ子の私的モチーフvol.252「喪失(或いは小説家とタイムライン)」

ある明け方にいつものように片付けをして、それから葉巻を一本吸うことにした。芋洗坂スナック時代からの古いお客さんが小さな木箱ごとくれたもので、気前よく人にあげたりなんかしていたらもう最後の一本なのであった。
酒が好き、酒が好きだが実は体は酒を全面拒否していることに気づいたここ数十日、魂と肉体の折り合いをつけて減酒している。

葉巻の1本はちょっとした沈思黙考で瞬く間に煙となって大気に溶け、火災報知器なんぞなっては大変と暁と共に開け放した入口の向こうへ出て行ったので、親友のひとりと言えるYuriが置いて行った軽い煙草に火をつける。
煙草というものに43年もの間縁がなく酒場女主人な見た目やハスキーな声と裏腹に煙草を ”やめたわけではない” つまり基本的には昔から煙草を吸わない自分だが、今ようやくわかる。酒を飲みたいが酒を飲むわけにいかない時には煙草を吸いたい。
葉巻がないせいでyuriの煙草を2本も吸った。

親友と呼べる女友達が3人いるけど、現在そのうちの2人とはちょっと距離ができていて、うち一人は音信不通だ。ナオミ。渋谷の円山町と、広尾。どちらもワンルームに二段ベッドを置いてナオミと暮らした。
6畳もないワンルームの、鍵盤の下、小さな折りたたみ机の上に当時Windowsといえば”Think pad!”を広げて何か小説のようなもの、を書いた。
そのうちの一つは信じられないことだが数年後に本になり、そして栞がわたしの目の前に現れるわけだけども、当時別にそれは「何かを目指して」書いていたものではなかった。
そう今さっきしばしの沈思黙考に燻らせればあっという間に煙になって扉の外へ出て行くような、とるに足らない気持ち、けれども自分には十分取るに足る気持ち、それにわたしは言葉をあてがっていたのだ、言葉にならない気持ちをあてはめる言葉を探して。ちょうどそう、今のように。

喪失。喪失について考えていた。或いは小説家とタイムラインについて。
或いは「喪失とパラレルな人生」について考えていたのだが、
これは友人であり日本の至宝と言える詩人の文月悠光の新作「パラレルワールドのようなもの」の表題のパクりになることに気づき、どこにも出すものではない脳内のテキストを修正する。パラレル、を削除し「小説家」を投入。「喪失/或いは小説家とタイムライン」
脳内でその作業をやりながら悠光ちゃんのあの詩集は凄いものになりそうだな、と、ぼんやり考えていた。連載を表題の1篇以外読んでこなかったので、いっそのこと読まずに新刊を待つ。
凄いものになりそうな勘。わたしはこの勘に長けている。
こないだYOSHIKIがテレビで言っていた。オーラの話。
自分はHIDEに会った時、別に楽器を弾いている姿を見たわけじゃなかった。だけど「この人はとんでもない」という”何か”があった。

うん、そういうことなんだよね。
正直全てはそういうことなんだ。なぜなら人間の五感は何よりも長けていて、だからこそどんなに素晴らしい機材で撮影した写真の数億倍美しい月を、わたしたちは見ることができる🌕し、どんな音楽よりも冷たい雨に晒されることができる。絵画よりも鋭い情感にえぐられ、夕飯の匂いよりも傍に誰かを感じ思い出すことができる。
言葉や表現はすなわちそれを「表に」「現す」ため、つまり対処的に生まれてきたツールだから、感情は言葉を超えるし、人が感じたこと、それは言葉や数字よりも真実だ。数字は裏切らないが言葉は裏切る。そして数字には、土台我らの文明や知能では解明しきれない要素がある故に誤解釈かもしれない。ともあれそんな感じがした、悠光ちゃんと5月にご飯を食べたとき。
悠光ちゃんはハッするほど美しくて、妖艶で、なのに優しく柔らかかった。
——何か凄いものがこの人から放たれるのだ。
そう感じてからずっと楽しみにしている、答え合わせまであと少し。

何について語っていたんだっけ?
そう、喪失。喪失について。

こんな感じの春樹口調は割と好き。

そう。喪失。

考えたんだ。

人が生きている間に”喪失”を抱えずにいられる時期って果たしてあるのかと。

断捨離という言葉があり、季節は流れる、という言葉があり、また、季節は巡るという言葉があるけれど。

人は誰かや何かを失い、そしてまた誰かや何かと出会う。
生き死に、だけでなく、わたしはもう3年間、ずっとナオミを喪失している。ある時はさおりを5年間喪失していた。
Charaを数年喪失していたし、志磨遼平を数年、喪失していた。
数ヶ月前からは超お気に入りだった金色のシンプルな指輪を喪失している。

人が人である限り、全ての人間に代わりはきかないし、愛着があるすべてのものも代わりはない。

このキャンドルは2019年12月〜2020年3月にかけて行われた「25歳の中島桃果子展」では大変活躍してくれたが、ひどくくたびれてしまったので、店の中にある黒いボックスの中につい最近まで仕舞っていた。先日店の整理整頓をしていて、ふとまたこれに火を灯そうという気持ちになった。ちょうど最近お店では夜キャンドルを焚いてることもあって、このキャンドルは瞬く間にそれらの中で馴染んだし、2階のレイアウトを再び再構成したことで、
KUMAMOKUテーブルが登場して以来二軍落ちして、
ずっとただただ物置となっていた楕円形のテーブルが再び「主役」と言える役回りを務めることになった。

窓際に再レイアウトされた楕円くん(2022.October)

そう、季節は巡る。
その巡りを知ったとき、我々は「刹那」のかけがえのなさを知るだろう。
今日と同じ明日はこなくて、明日と同じ明後日は来ないし、
何よりも「昨日と同じ今日は今はもう来ない」

これこそが喪失であり、刹那の反対側に潜む昏い時間である。
明日も明後日も、当たり前に同じような顔をして来ると思っていたお客さんが突然来なくなる。それは「売り上げ」とかよりも正直堪えるもので、
しかしそれらの喪失のための準備として刹那を生きている自分はいるので、
喪失を耐え抜くポテンシャルはある。
いくつもの喪失を超え、わたしは大人になったのだ。

けれど。

Let me phograph in this light
 In case It is a last time….

だからこそわたしはバカみたいに刹那をカメラロールに収め、
葉巻を燻らせて今日という過去を噛みしめるのだろう。

この刹那が明日の喪失へのタイムラインかもしれないから。

人はいつも「喪失」を抱えて生きている。
喪失を携えていない人はいない。

いたらばそれはきっと残酷で優しくない人だろう。
人の痛みを知らない人だろう。
残酷で無慈悲な幼い頃の自分のように。
あの頃、喪失を知らなかった。
今を焼き付けて生きていこうなどと思わなかった。

けれど今書き留めたい。今焼き付けたい。
In Case It is a last time….
もしかこれがあなたと会う最後かもしれないから。

気づけば眩しいくらいに白い朝陽が、こちらを見ていた。

小説家は喪失について考え、タイムラインをロストする。

In art we trust.
喪失の最中にあっても、気高さを失わず。
けして飼い慣らせない喪失を飼い慣らそうと青くあらがう。

喪失/或いは小説家とタイムライン。

「月曜に、会う約束なんてしてたっけ?」
とLineは来ていた。

「うん、約束したよ。”約束をして会おう”って約束したの」

わたしは、ちょっと考えてそう返した。

           執筆メモ「喪失/或いは小説家とタイムライン」
               TOKYO  OASIS(2022)より


月曜モカ子の私的モチーフvol.252「喪失(或いは小説家とタイムライン)」

先週の「月モカ」は”ひとかどアーカイヴ”にしたのでナンバーは今日のをvol.252にしました! 


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☆モチーフとは動機、理由、主題という意味のフランス語の単語です。
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