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月曜モカ子の私的モチーフvol.219「女神の袖を離すな」 文 ナカジマモカコ

アーカイヴばかりしていないで新しいエッセイも書いてみよう。
基本的には直感的なタイプである。閃きを大事にしている。なので本日もかなりたくさんの梱包作業をしなくてはならなく、当初は夜通し作業する予定だったが急遽予定を変更、起きてから投稿する予定の「月モカ」を先に書いて、今日はもう寝ることにした。かなりすごいプロジェクトになる予感しかない別の直感案件の相方から、ラジオ「ハライチのターン」を聴いておくよう宿題を出され、集中力と根詰め坊主度だけは高いわたし、何と昨日と今日で、毎回1時間あるそのラジオ番組を、2021年1月〜5月の前回分まで全部!聴き終えた。おもしろいし、梱包作業もはかどったよ。

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閃き優先で生きているので「今だ!」みたいな感覚を割とキャッチするのが早いと思う。「今だ!」と書いたけれど、ピンポイント的な一瞬そのものよりも「今たぶんわたし、こういうシーズン」ということ。
そういう意味では一番予想外だったのは、わたしの感覚では「喪が明ける」と思っていた2021年が、これでもかという最後の修行卒業テストの1年になったことである。わたしの場合このシーズンはある意味2019年3月31日界隈からスタートしてるのでコロナとはあまり関係がなく、むしろコロナは、肺炎で一ヶ月という長期入院をした後に毎日深夜まで煙草の煙プカプカ、の店に立たなくてはならないという「モカコ緊急事態」を「国の緊急事態」によって緩和してくれた。あの時「仮ロックダウン」ということにならなかったらたぶん、わたし、肺を壊したまま生きていくことになっていた。

で、女神の話であるが、わたしは毎月滋賀県の本屋さんに卸している”月イチ”がんこエッセイでも、女神にまつわるエピソードを2つ書いた。でもこの月モカでわたしが言及したいのは、まあもちろん「女神そのもの」でもあるけど、どちらかというと「店にいる女神」について。

(↑現在なんと!モカコエッセイに栞珈琲がもれなくついてくるんです!おまとめセットもあるよ♪)

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日本の女神だって、芸能だったら”あまのうずめ” 、豊穣を願うなら”豊受(とようけ)のようにセクションが分かれているので、小説と女主人案件もまた然りであると考えている。

がんこエッセイにも書いたけれど、わたしは一度女神の裾を自分で離した。
自身の意志だったので悔やんではないけれど、小説家としての活動は地下に入った。この経験から学んだことは、女神がそばにいてくれている時、つまりそのご加護の元に自分がある時、それが自分の望む仕事の内容と違ったとしても「絶対に女神の裾を離すな」ということである。これは振り返って、小説家としてのこれまでを後悔しているのではなく、今じぶんの店のことを言っていて、今自分が置かれている場所のことを言っている。一度女神の裾を離してまで好き勝手に生きたから、今ある女神の裾を離さないでいよう、というフェーズに入れた。人生にも段階がある。転んでみないと転びたくないと思えない。笑。小説の女神の裾に関しては、あの時やはりどうしても親友と芝居がしたくて、そして酒と恋に溺れたりとか、そういうロックで1960年代的なことを、してみたかったのだ。はすっぱな暮らしを。そしてその夢は叶い、クソみたいなはすっぱな暮らしがデフォルトになると、エイミーワインハウスやデミロバートにひどく肩入れしつつも現状がどれだけクズいものかを思い知って、それからの脱出を切に願うようになる。笑。ロックスターの逸話だとただただカッコイイ、入ってきたお金を一晩で使うとか、泥酔してスタジオに現れない(=〆切を飛ばす)などなど、実体験としてやってみたら社会のクズこの上ないし、ただただ格好つかないだけのこと。

話が少し外れたけれど、女神が傍にいてくれるときを見極めるのは、わたしにとっては簡単なことで、とても自分の手柄とは思えないような状況がやってくる。例えば新人作家なのに仕事が次々舞い込んで、それが途切れない。お店だと、なんかよくわからないけど、ろくなつまみもないお店にお客さんが次々ときてくれる。事実、2019年、元々のお店の表札を剥がす、とか、賃貸契約の名義が変わる、とか、そういうアクションがあるたびに、毎度新しいお客さんがどこからともなく訪れ、これまでの最高売上を更新してゆく、そんな日々が続いた。不思議なことは、そういう時に訪れる新しいお客さんは、その9割が「今日ふと見つけた」人であったりすること。

もちろんこれはただのラッキーではなくって「神は細部に宿る」に近い案件で、ある時期の血の滲むような努力や、人生のギャンブルに人生ごとを賭ける、くらいの気概の先に、そっと「転ばぬ先の杖」のように授けられるもので、気概のないところに女神は宿らない。いわゆる「スーパーマリオ状態」なのだけど(ゲーマーじゃないので古くてすみません)、これは過去の努力の貯金タイムみたいなもので継続した努力がないと、魔法が解けたとき、
びっくりするほど、その能力が膨らんでいかない。

簡単に言えば、昔は(こんなもので良いのかしら?)と自分ですら不安だった原稿もバシバシと文芸誌に載る。でも今は、自身の最高傑作と思える最新作がプロアマ混在の文学賞の一次選考すらもう通過しない。そういうこと。
もしも以前の自分の作品には金色に輝く薬が塗られていたとしたら、今のわたしの作品には鈍色にくすむ薬が塗られている。そんな感じ。
だって同じわたしが書いているものなのだもの、ピンキリではない。いつだってあるアベレージを叩き出している。はずなのに。

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だから今わたしは「あまのうずめ=小説の女神」を取り戻す行為にいそしみながら「豊受=店の女神」の袖を離さないように、全てのエネルギーをそこに注ぎ込んでいる。

なんかふんわり、人生の采配はまるで女神次第というようなことを言った後で、究極に地続きなことを言ってしまうが、だって今のわたしは、物理的には執筆で生計を立てていないもの。つまりわたしの生業は、実質的に、根津の酒場の女主人なのだ。その現実を受け止め「0」になる気概が大切なのだ。女優になりたかったけど、芝居の借金を小説の賞金で返したから、わたしはもう女優ではない、小説家なのだと、デビューした年に決めた。そして今、小説家であり続けたいけど賞を取れなかったので、一旦自分を「とあるサロンの女主人」なのだと肚を括った。それに必要な行動を、信じられないくらいのスピードで進めている。かつて「女優になるために」してきたことは、いつしか「小説家としての」自身の振る舞いになり、今は「女主人として店を存続させるための」振る舞いになった。定義や肩書きは変わったけれど、やっていることは全然変わらない。もう半分放置してしまっているブログのサブキャッチの通り「生きること、書き記すこと、前に進むこと」が、中島桃果子なのだ。そう ”愛とあたしの中の綻びよ、永遠に” 。

目指す場所はいつも変わるけれど、信じてるものはいつも変わらないー

POPなメロディに載せていつも普遍的なことを歌っている。年をとるに連れ、JUDY and MARYの歌詞は深いなあと思うのだけど。

とにかく今、
傍にいてくれる女神の袖を離すな。
それはすなわち、今の自分に寄り添ってくれる人を大切にするということなのだから。自分が何者かなんてどうでもいい。まず、今のわたしがやるべきことを。信じてるものはいつも変わらないから。だからわたしは、話を持ってきてくれた常連さんと組んで、今持ってるありったけのお金を注入して「事業再構築補助金」の申請をした。採択されれば経費の3分の2以上を国が負担してくれる。それでイーディの2階を”ラジオ発信局に” ”自家出版”の本屋さんに、ちょっとしたライヴができたり芝居ができる実験劇場に、再構築していく。そしてそれができるのは、わたしが小説家として、また表現者として、培ってきた時間と経験があるからであって。そこには女神の袖を放して「小芝居仕立てのジャズライヴ」に入魂した2015年〜2017年の3年間の日々もある。

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アラニスが言うように、人生はいつも”不思議なやりかた”で、あなたを助けてくれる。あなたを救いだす。

「書くこと」が女優になりたかったわたしを救ってくれて、
その後「女主人としてのわがお店」が、小説家として自家出版の本を売るための場所を授けてくれている。だからお店の存続、関わってくれるみんなとこれからも一緒に居られるために2階でラジオを始めるけれど、
なんかそのわたしを助けるために、ふと、お店以外での出役の仕事(ラジオとか映画とか、なんかその他)が来たり、したりして。

信じているもの、自身の所信を貫きながら、
今、必要とされている仕事を、必要とされている役割を、真摯に果たす。
わたしを信じて寄り添ってくれた傍にある女神の裾をけして離すな。
そしたらきっと「やりたいこと」の扉が拓き、
新刊の表紙に、雨上がりの虹がかかるのさ。

だってわたしは、42歳、令和の地下アイドルなんだもの。笑。

                  <モチーフvol.219「女神の裾を離すな」2021.05.17>

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☆モチーフとは動機、理由、主題という意味のフランス語の単語です。
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