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無抵抗で無防備な夜の記憶と妥協としての無表情(ちょっと思い出しただけ)

夜にしがみついて 朝で溶かして
何かを引きずって それも忘れて
だけどまだ苦くて すごく苦くて
結局こうやって何か待ってる

ナイトオンザプラネット/クリープハイプ

電磁気学の講義の間に適当に書いた短いnote

人間は思い出の中で生きるんだと思う。気持ち悪い始まりで流石にごめん
誰かの思い出の中で生きているという意味かもしれないし、思い出を少しずつ思い出して、消費しながら生きてるってことかもしれない、正直どっちでもいいんだけど。

高校3年生、もうすぐ受験。秋の冷たい風はひらひらの薄いスカートでは防げるはずもなくて、高校最後の現代文の題材、西谷修『死の再定義』
「そもそも、死ってなんでしょうか?」と問いかける、なんというか、真っ当な教師と、頬杖をつきながら、真っ当な回答を薄目で眺めていた5限。
とても頭が良くて、特に語彙力と文章力では群を抜いていた、背の小さなクラスメイト女の子、まあ女の子しかいないんだけど。その子が小さく「はい」と挙手して、みんなが振り返る
「誰かの記憶に残り続ける限りその人は死なないと思います」
真っ当。というかありきたり、でも彼女が言うとそれらしいね、という雰囲気を吸い込んで静かに長く息を吐く。その数秒間、空気が静かに逆流するような衝撃。衝撃?なんというか、え、本当にそうじゃん、となんかすごくびっくりしたという話。どうでもいいんだけど
一般に「死」というと肉体の死を指すけど、それはあくまで「肉体の死」で。肉体のことを言うなら、死んでたって、忘れてたって、離れてたって、こっちからしたら本質的には何も変わらない。

ずっとどこかで生きているんだろうと思っていた人が、実は10年前に亡くなっていたと知ったとして、その人はわたしの中でいつ死んだことにするのかな。

別れが死じゃないなら、記憶は生だ。いや知らないけど


なんか言い忘れてたというか、全然違う話をしてしまったんだけど、松居大悟監督の「ちょっと思い出しただけ」の感想をちょっとだけ書きます。見てない人は読まない方がいいのかな、知らないです。


わたしは音楽が好きです。音楽を作っているひとたちのことが好きです。

クリープハイプというバンドがあります。

尾崎世界観からは暗く投げやりな人間性を感じます。この感情を「クズなバンドマンっていいよねー」にまとめてしまうのはなんとも勿体無いけど、多分そんな感じでいいんだと思います。

クリープハイプのファンというと、なんか、エモい、エモいと鳴く女、あー、これ悪口じゃないんだけど、なんていうのかな、キモい女が多いよね、これはちょっと悪口かも。スミマセン。

わたしがクリープハイプという音楽、尾崎世界観という呼吸に惹かれるようになったのは、2018年。FM80.2の春のキャンペーンソング。
2018年は尾崎世界観(クリープハイプ)、片岡健太(sumika)、あいみょん、斎藤宏介(UNISON SQUARE GARDEN)、GEN(04 Limited Sazabys)、スガシカオとかいう後にも先にもない神々の集まりだった。
尾崎世界観が中心となって彼らが作り上げた曲が「栞」
わたしはこの曲が大好きで、公開されたその日からそれはもう聴きまくった。えー本当に懐かしい!(今は権利の関係で動画は非公開になっている)

尾崎世界観が描く人間はいつも他人から見れば冷淡で遠い目をしているんだと思います。だから別れを目の前にしても、今日までの記憶も未来への希望も、自分は釣り合わないと切り捨てる。でも、せめてもの抵抗として、笑顔で誤魔化したりなんかしない、妥協としての無表情、そういう人だと思います。

クリープハイプの曲に「ナイトオンザプラネット」というのがあります。

歌うような語るような尾崎世界観の詩とうねるようなバンドサウンド。最初聞いた時、すごくおしゃれな曲だなあと思いました。

引き摺るようにこなす繰り返しの日々が、皮膚を抉って、赤い跡を残していく。思い出というとなんか幸せだけど、そんな場所に収まりたくない、と抵抗して、でもやっぱり綺麗にラミネートされてしまった思い出。そんなかわいそうな存在を映し出す夜の街灯、ナイトオンザプラネット。

松居大悟という人がクリープハイプのいくつかの曲のMVの監督をしていることは知っていたけど、わたしはこの映画を一昨日とかに知りました。多分公開日のあたりが受験生だったんだろうな、言い訳です。なにで知ったかというと、ナイトオンザプラネットのMVを見ていたら、コメント欄に「この曲が好きなヤツは『ちょっと思い出しただけ』も見よう!」みたいなお節介コメントがありました。ごめん、さっきキモいとか言って。教えてくれてありがとう。

伊藤沙莉と池松壮亮、愛もすれ違いも感情も平行も全部ありきたりでリアルでつまらなくてすごく良かった。

最後のシーンで、家庭を持った伊藤沙莉が池松壮亮を一人で思い出していた。笑い飛ばすわけでも、酒の肴にするわけでも、箱に閉じ込めるわけでもない、思い出の可愛がり方。思い出ばっか可愛がってたら今が拗ねちゃったりして、でも自分を大事にするってそういうことだと思います。記憶を大事に抱いて生きるのはすごく難しい。過去は無抵抗で無防備だから、搾取にならない程度にそっと触れる。

暦を発明した人は、とても悪い。記憶は月日と共に消えればいいのに、365日に一度、同じで違くて甘くて苦い日を繰り返す涙が出る呪いを残していった、みたいな。

ちょっと思い出しただけ。そう、本当にちょっと、思い出しただけなんだと思う。今の自分が歩く線から少し遠くに飛ばす思考、方向だけ定めて力一杯投げたらどこまで行くのかなって、遊びみたいな思考の一瞬。(ケーキ買ってるのはちょっと露骨だなと思っちゃったヶど)

疲れちゃったからもう終わり。アイスと雨音見たいな。

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