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他人評価と個

他人評価により左右される人生。

これこそ現代に生きる私が最大に悩んでいることである。

他人評価が大事らしい。

「個性がほしい」

と嘆く人も多いがそれ自体に個性が無いことにみな気づかないふりをしている。

群れるマジョリティの中にぽつんと佇むマイノリティ。

マイノリティが認められる世の中になってきたらしい。

だが私は思うのだ。

“認められる”ってなんだろう?

いて当たり前のマイノリティは
マジョリティに存在を認められないと存在してはいけないかのような風潮に苦しめられている。

例えば性的マイノリティ。
所謂LGBTの人たちだ。

恋愛、結婚、子ども、人生の在り方。

自由を手に入れたように思えて、手足は縛られたままだ。

恋愛をして結婚をするにあたっても、同性では法的に“認められていない”

渋谷ではそれが“認められた”らしい。

どこなら結婚できるとかそんなことはどうでもいい。

認める、ということ自体おかしい。
そう思いませんか?

認める認めないとかより手前に、
存在していること。

それが近すぎて見えていないのか、
我々はマイノリティをはじいている。

男が女を、女が男を好きになることが当たり前だと思う世界が異常だ。

性的マイノリティを例に挙げたがそれ以外もなんら変わらない。

世間一般のものさしで生きる人間は
無意識に差別を行う。
してはいけない方の差別である。

いつの間にかそれが言い出せない雰囲気を作り上げるのだ。

そして勇気を出して話をしたマイノリティに向かってマジョリティは鼻高々とこう言うのだ。

「そういう人もいていいと思う。」

少数派を認められる寛容な自分に酔いしれる。
ださい、ださすぎる。

マイノリティは

“いてもいい”ではない。

“いる”のである。

認められなくても存在している。

だからこそ私は言いたい。
世間の評価に頼りすぎると生きにくくなることを。

世間一般という言葉に飲み込まれるのは恐ろしい。

個人で生きていきたい、
私たちはいてもいいじゃない、いるんだから。
自由でいい。好きにやればいい。

#コラム #エッセイ #言葉 #マイノリティ #マジョリティ #呟き #評価




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