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仕事はどれもやりたくない。|いまの私の仕事観


仕事観の自分用メモみたいなものです。

2016年。新卒から労働社会に出て数年が経過しました。
私は労働が全く好きではありません。一度も好きになったことはありません。
やらなくていいならやりません。
好きになろうと思って仕事に本気になり、自分を洗脳したこともあります。ただ、洗脳は洗脳にすぎませんでした。子供のころから何も変わらない私は、20歳の時も30歳になっても、変わらないでしょう。

やりたいことをやろう!みたいなメッセージに世の中が浮かされた昨今ですが、
それは私にとって、単に「労働者を浮かせ、きれいに見せかけるメッセージ」に過ぎないと思っています。

社会においては、「やりたいこと」ではなく、「やれること」の方が重要で、楽です。
それは多分人間みな同じでしょう。
なぜなら資本主義社会においての「不和・不満・不安」を解消し、お金をもらうのが労働です。
人がやりたくないことを、お金をもらうことで代行するのです。
利益が出なければ、私たちのお金はないです。

起業したいとかなら別ですが、そんな責任を負ってまで、「仕事じゃあないかのように熱中できる」仕事に、私はまだ出会っていません。多少好きだとしても、心身を忘れるほど熱中することはありません。出会える時がきたらくるでしょうが、今の私にはないです。企業の正社員は、守られており、楽です。


「もともと負の前提がある」ならば、「自身がなんなくやれること」を提供した方が楽に決まっています。
それが楽しかったことはありませんし、これからもないでしょう。
私はたぶんお金が有り余っていたら仕事なんてしないと思います。

むしろ自身の自由を拘束されるだけのそれに楽しいことがあるとするならば、
常時ある苦しみの中にほんのたった少し、ほんのたった一部に、
物凄く熱中できるほどのものがあること。自分の理にあっていること。
社会のなにかを変えられるようなその概念に、利益を出すと約束し、ただ利益を度外視して熱中できること。
なのかなと最近私は思っています。

ただ、そういう楽しい仕事が簡単にできるかというと全く簡単ではありません。
やりたくもない「当たり前のこと=世の中の不和の解消」に「当たり前のように」結果を出し、文句を言うことがすきなやつらに文句を言われないように。
その出した結果の余剰時間で、やるのです。余剰時間なんて多くありません。
楽しいわけがなくそもそもの前提が苦行なんですね。
でもなんでできるかというと、熱中できるからです。
理念のまま走る、「つい走ってしまう」。
しかし心身が壊れない程度に。
みたいなバランスが重要だなぁと思います。

その中で、「自分とは全く違うできること」を持っている、「自分とは全く違う価値観の」人たちと協業する。そんなことをわざわざ強制的にできるのが、面白味のひとつなのかもしれません。チームメンバーじゃなければ関わり合いにならないタイプって、内向が過ぎる私にはたくさんいるので。

結局仕事なんて、ただこの社会を今生き抜くためのお金をもらう手段にすぎない。
心身を壊すほど熱中するべきでもないと思います。
ほかにも心地の良いこと、「今大事にできることを、大事にしよう」と思います。
私今このときを生きるちっぽけな人間だしね。

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