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期待されるのが嫌い|原点を探る



期待される人になりたい、期待されてうれしい。
って言葉よく聞きますけど


私期待されると逃げたくなるんだよなぁ。
そういう人いませんか?

相手や内容は問いません。
期待を直接言われようが、間接的に空気を読むよう誘導されようが、
行動の負担が大きかろうが小さかろうがすべて負担に感じます。

期待されてうれしかったことは殆ど思い当たらないし、
なんなら逆張りのように、重さを感じて何もしたくなくなる。

これは個人的な問題・課題なんだと思うんで掘り下げます。
同じような人おれば教えてください!😂



期待されたくない原点はどこ?

もしかしたら生まれつきそうなのかもしれないけど、どこかに原点があるのか、ふと幼少期を思い返しています。

幼少期を思い返せば、
当然のように期待され当然のように期待に応え、
なお当然のように期待されてきた人生でした。


思春期に入ってだいぶ減ったにしても、幼少期~10代前半の自分の原点でいえばそうだったと思います。

私は運動はできないけど素行や成績は良く、
内面は不器用なのに外面では器用に見える
他人に評価されやすい子供でした。

7歳の時に弟が生まれました。

今思えば当時は半分機能不全めの核家族だったので、父親はほぼ常時不在。
精神面においても不在でした。彼は当時、ただのATMのような存在でw
行事には参加せず、そもそも家にいない。
勉強を教えてくれると言えばやり方を押し付け厳しく叱ってくるだけで何の意味も感じられない、ATM!
家族という認識は薄かったです。
(齢60近くなって、今は「ATMをし続けた危険」に気づいてるらしいよ。)


父方の祖父母は少々頭がおかしく、役に立たないので遠くにおいていました。
母方の祖父母は優しく善人ですが、先回りをしてレールをつくる過保護な人でした。

過保護に育てられた母親は子供っぽい人だったので、私に「期待」していたなと思います。
弟の育成を、子供ながら私も半分背負っていたのです。生活面でも頼られました。
小さなことだけど、電気が切れて電球をつけるとか、テレビの配線をつなぐとか、年賀状の印刷とかさ。
母親は依存的で、苦手なことは私に頼ることが多かった。
今もそういうきらいがあるけれど、「期待されたい」気持ちがある弟のほうに行動を流しています。私に頼むな。

「ママにはできないけど、あなたにはできる」という言葉は、呪いだったかもしれない。
できないわけない、子供の私が説明書読めばできるんだから。どこの家にだって同じ商品があるんだから。私以外の誰にだってできる。
でも、経験も少なくできることも少ない私は、人と同じ速度で自分の意見を言うのが苦手だった。黙っていたのは、いまのような速度で思考できなかったから。思考より、周囲のスピードがはやかった。

私は、精神的に大人であることを強いられていた。

私は家族に精神面を頼ることをやめ、頼み事があっても言わないようになったのを覚えています。

一番覚えているのが、家庭科の裁縫実習。
布・フェルトを買ってきてという指示が出ていたのを、私は知らないふりをしました。
親に言うことが億劫だった。困っていたけれど、どうしようもなかった。
当日は、ないままで忘れたふりをして、先生に桃色でチェック柄の布をもらいました。
そういう「自分への小さな無視」を続けていたのを覚えています。

そうして私は、「手のかからない良い子」と言われるようになりました。
周囲から何をしても肯定されるから、
大人をだますことなんて余裕だと私は調子に乗りました。

弟は発語も遅く、頭も悪くて、私の子供のころより自由にふるまって、大事なものはなくすわ、先生からの評価も悪いわ、すごく不器用だけれど。
でも、私にとってもかわいい弟は、ただただすごく愛嬌のある子どもでした。

弟の人生を歩みたいとは思わない。
けれど、子供のころはずっと、彼の性格がうらやましかった。
母親は、目の離せない彼にかかりきりになった。
父親も、仕事からやや手を放し不器用な彼を注目した。注目しなければ、何をしでかすかわからない子供だったから。
私も、「よき姉であるよう」期待されていたから、彼に注目した。
今は全くそうは思わないけれど、うらやましかった。

頑張っても頑張らなくても何をしてもしなくても期待をされ評価されることで、ひねくれた自分は、自分の良さがよくわからなかった。何もなかった。
ただ、周囲をだまして得た評価だけが事実だった。

弟に目線が集中するさなか、私は親の意向で中学受験での成功を「期待」されました。
ゲームや漫画を禁止され、勉強漬けの毎日だった。私の意見は、親の意見だった。
周囲の受験者は、小学生ながらもっと自立して自分で考えていたし、何も禁止されていなかった。そのフラストレーションを今は思い出せないけれど、中学に入ってからは反動のように授業を聞かず友達と趣味に没頭するようになったのは、自由を知ったからだったと思います。

「○○してほしい」という言葉は煩わしい。
やりたかったらやるし、やりたくなかったらやらないことを、選ばせてくれ。
ってか、自分でやれよ。できるだろ。なんで私なんだよ。

「○○してくれないかな」が含まれた期待も、煩わしい。
見え透いた期待を押し付けてくるな。
期待するのは勝手だけど、見えないように期待しろ。期待するのはいい、勝手に失望すんな。
全部自分で解決しろよ。できるだろ。なんで私なんだよ。

という見えない言葉がきっとそこにある。

なるほどなぁ、原点はそこにあったか!


たとえば、仕事で、正当に私に依頼すべきものだったらすんなり受け入れるのに、
個人に向けられたものが嫌な理由はそこにあった。
みなかみさんだから、とか私固有のものにされるの、本当にいや。

期待しなくていい。
私には何も興味を持ってくれなくていい。
私にしかできないことなんてない。
だから私も他人に期待をしたくない。
期待は重く、疲れる。

私は相応以上の努力をしてきたし、その習慣で自分を律することくらいは簡単にできるから。期待されなくても、できる。
ただ、対等にそこにいてくれたらいい。私はその方が自発的に頑張れるかも。

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