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感想)ユリシーズ集会-純粋所作のこころみ-から。

心をふるわせ、引き裂かれそうな心をつなぎとめる。
私にとっては、そんな踊りであり、場であった。
2024年2月4日のユリシーズ集会-純粋所作のこころみ-について。

参加の動機。

最上和子さんのことは、いつのことだったか、Twitterのタイムラインに、その静かで知的で解像度が恐ろしく高い文章が流れてきたことから知った。

わたしは、普通に会社員をやりながら、副業で相談業もやる。
ただ、とにかく、自分と世界の解像度を高めたい、と思っている人間だ。

見えない世界のことにも興味があるが、世の中にあふれるマーケティングスピリチュアルとでも言うべき風潮に、何年か乗ってみた後に嫌気がさしていた。「わかりやすい」「すぐ〜」「〜だけ」を標榜するスピリチュアルやら自己啓発やら、それらと結びついたエンタメ陰謀論にうんざりして、今は哲学書を読んだりしているような、言ってみれば根無草のような存在である。

舞踏をはじめとする芸術家や、スピリチュアル方面の人の中には、言語化自体を嫌う、あるいは敵視しているとお見受けする人もいるが、最上さんは、言葉の限界を知りつつ、言葉にすることをやめない人だと思った。

私には、「踊り」というものは、体感としてつかめるものがなく、正直わからない。でも、「きっといつか、その踊りを見てみたい!」と心から思わせる文章ににじむ繊細さと頑固さが、なんだかすごく魅力的だった。

1月に最上さんがソロで踊る旨の告知が流れてきた。
抽選制とのことだったが、ダメ元で申し込んでみたところ、ありがたいことに当選したので、先約を調整し、参加させていただけることになった。

開演前。

舞台は、靴を脱いで上がる、お家の中だ。
決して広いとはいえない板張りの空間。
梁から伸びる何本かの柱が目に入る。

座布団の上に、30センチ強くらいの間隔で、人と隣り合って座る。

色々なものがこんなに近いところで、まるで触れるように、踊りをみるんだ。と思った。

映画館でも劇場でも開演前につきものの、おしゃべりの声、みたいなものが聴こえない。若いお嬢さんは静かに文庫本を読んでいる。

顔は見えないがすぐ近くで待機している演者の空気感を読んでのことなのだろうか?抽選制で知り合い同士が少なかったのだろうか?理由はよくわからないが、わたしには心地よい静けさだった。

もうなんか、すでに、すごく良いな。と思ってしまった。

踊りの時間。

初めて最上さんを視界にとらえたとき、「巫女」という言葉がふっと浮かんできた。

でも、そういう先入観で見ない方が良いのかな、と打ち消した。

視線はわたしにはみえない何かに注がれていて、視線が合うということはないのだなと思った。

腕を上げたり降ろしたり、衣をつかんだり離したりするための、一ミリ一ミリ、ゆっくりと動いていく所作に、震えをみた。

それは、わきあがる感情で震わせているとか、筋肉を震わせているとか、そういうものではなく、もっと内側の振動が身体表面に浮き上がっているような感じがした。

わたしの心は、たぶん、ずっと拡散と集中を繰り返していた。

あの人が座っている場所から見たら、どうなんだろう。最上さんの背中側から見たら、どうなんだろう。視点を飛ばしてみる。

同じように身体を動かそうとしながらみたら、どうなんだろう。脳の指令ではなく内側から腕を動かそうとしてみる。

素人の分析など無意味だとわかっているのに、初めてみるものを捉えようとして、わたしの全身が好奇心でいっぱいだった。

もう、黙りなさいよ、と自分の内側に言うのだけれど、全然黙ってくれない感じだった。

きっと、踊りをみる態度としては、今ひとつだったのかもしれないなあと思う。

でも、視線が合わなくても、みることで触れるような感覚があった。

とにかく内側からの振動に従った動きなのだということ。
身体でそれを受け止めて、彼方へ連れていくようなことをしている。
身体ありきなのだ。
なんとなく、そんなイメージを持ったように思う。

トークの時間。

集まった人たちの質問やもすごく的確だったから、わたしは幸せなインプットに徹してしまった。

最上さんが、文章そのままの語り口で、金言が次から次へと飛び出す刺激的な時間だった。うんうん頷くのを止められなかった。

冒頭、今日は、あまりうまく行かなかった。
あまり入っていけなかった。
という趣旨のことをおっしゃっていた。

当人がそうおっしゃるならそうなのだろう。
比較対象を持たないわたしには、そう受け止めた。
(長くみている人たちは、みな、そんなことないです、と口々におっしゃっていた。)

ただ、最上さんご自身が、良いときも悪いときもあるんですよ。人間ですから。と堂々とおっしゃったこと自体が、ものすごく嬉しかった。なんだか、受け取り手を、信頼してもらえているようで。

今回は「こころみ」とタイトルに付されたように、機能的でないものとして削ぎ落とされてきてしまった「所作」を身体で空間に刻んでいくような踊りの中で、人間が到達できる内側の領域があるのではないか、と試行錯誤しながら構成した中での、ひとつ目の実践だったと理解している。

高み(深み)を目指されている中で、もっといけるはずだ、という自分の感覚を信じるからこそ、今日はあまり良くない、とおっしゃられたのかなとも感じられて、「また、次をみてみたい!」という願いを抱いた。

振り返って。

生きてこの世を見聞し、あれこれ思考する中で、宗教を持たない(持ちたくない)わたしは、まるで心というか、意識が引き裂かれそうだと感じることがある。

西洋も東洋も、自然も人工も、どちらも魅力的だと思う自分は、科学的合理的な態度も持ちつつ自然も愛し接するような、世界と切り離されることなく個を保ちたいというような、両義的な心を持つ。どちらか一方を選ばなければうまくいかないよ、という誘惑に、心が引き裂かれないように、身体をもつ人間として、地に足をつけて生きることを自分に課しているようなところがある。

身体を使って内側から深奥をみること、生きながらにしてあちら側に行って帰ってくること、踊りでそれを表現してみせようとする最上さんのチャレンジを目の当たりにして、ああ、今のわたしはたぶん、これで良いのだなあ、と心がふるえて、つなぎとめられたのだと思う。

卑下ではなく、凡庸なわたしなりの、自分と世界の解像度の高め方は、なんらかの物質や集団の熱狂の力を使ったエクスタシーのようなものではなさそうだ、と思えたのも、とても大きかった。

この場に居合わせられた幸運と、最上さんをはじめ、場にいた全ての皆さまに、感謝したい。

とりとめない感想になったが、ここまで読んでくださった方、どうもありがとう。

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