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【地方移住Z世代の手記 #3】地方のフリペの記事に世の中の鬱憤を感じる

はじめに

私は数年前に人口が4万人ほどのある地方都市に移住した。県庁所在地までは30分ほどで、普段の買い物や用達には不便しない場所だが、雄大な自然に囲まれたバランスのいいコンパクトシティだ。
私自身は学習意欲だけはあって、そのため地方でリモワしつつ、いくつか修士号を取ったり、継続したりしている、セミアカデミックになりたい人。

地方のフリペ、おもろい

今日の話題は地方でやたら見かけるフリーペーパーだ。
こちとら大好物である。

老舗の肉屋のコロッケ特集
週末に行われる地産地消マルシェの情報
地域で取れる山菜とそのレシピ
などなど

ネット検索ではなかなか出てこない情報が溢れているので、重宝、重宝。

地味に楽しみなコラムコーナーで見つけた悲哀に満ちた記事

ものによっては映画の論評や寄稿記事がいくつかあり、それらもついつい読んでしまうのだが、ついこないだ読んだ記事にこんな内容のコラムがあった。

「20代女、普通に生きていけない。飲み会でもうすぐ結婚する友達のプロポーズの時の言葉の話題になって、心底どうでもいいと思いつつ、私はきちんと擬態した(興味があるフリをした)。(中略)私はこのまま一生擬態しないといけないのだろうか。」

とある地方のフリーペーパーのコラムの記事より

といった内容だ。うーん、なんとも現代っぽいストレートな本音。ちょっと気分の下がる感想だ。この言葉から現状を認識してみる。

「自我の定義」を激しく求められる「機械的な」世界

一言で言うと、この”出口のない憂鬱”には多くの学者が向き合い、古くはヘラクレイトス、有名どころで言うとデカルトやフロイト、ユングなどが取り組んでいる。

この文章には大きく分けて二つ悲しいポイントがあった。

ポイント①本来の自分を隠さなければいけない状態で毎日働いてる人が多く存在するという事実。

社会学者のピーター・バーガーはこう言っている。

「ある思想が歴史の中で力を持つかどうかは、それが正しいかどうかで決まるのではない。社会の具体的な流れと結びつくかどうかで決まるのだ」

ピーター・バーガー

ある思想を、現代において「科学で全ては解明でき、未知の領域は今後解くべき問題であり、常に成長し続ける世界の中で人類は競争によってさらに進化を遂げていく」だとする。
この論理は正しいかどうかは全く関係なく、資本主義経済とがっちりと結びついて、現代を生きる私たちに典型的な人格のイメージを植え付けている

すなわち、名門大学を卒業し一流企業を経て独自のやりたい事を見つけた上で独立し、年収何千万を稼ぎながら世界を変えるような事をすることが素晴らしい、といったテンプレだ。

毎日自分を上記になるべく当てはめながら典型的な性格で生きなければいけない社会の圧があるために、そこから極端に外れることは悪であり、居心地が悪くなる。それゆえ、本音を常に隠しながらキャラを装いながらの立ち振る舞いが常態化し、ついに自分を見失う、神経症(うつ病や統合失調症など)にかかる。

ポイント②「他人が自分を認めてくれない」以前に、そもそも「自分が他人を認めていない」ことに気がついてない

そもそも自分が他人に心を開かせず興味も持っていないのに、一方で自分は他人に自分を認めてもらい興味を持ってもらいたいと考えていること自体に自覚がない、という事実。

これは思ったよりも深刻じゃないかと。

自分はプロポーズの言葉の話題に興味がないが、飲み会の他の同僚たちは興味があって話題に上がった。これは紛れもない自分と他人との差異だ。

自分の他人と異なる点を認めてほしいと思っているのならば、当然、他人が自分と違うことも認めなければ関係が成り立たない。

「へえ、私はプロポーズの言葉には興味ないけどみんなは興味あるんだ。なんでだろ?もしかして自分も彼氏がいて妄想してるのかな?」など相手の気持ちを想像するプロセスを通じて、多様な価値観を獲得していく。

しかし、この書き手はすぐに興味関心をシャットダウン、防衛体制に入っている。他人の差異を受け入れる器量を全く見せていない。

これは推測だが、この記事の書き手の人は独身で彼氏もおらず、心から巣をさらけ出せる相手もおらず、プロポーズの言葉の話題が自分を傷つけるから避けたかっただけだと想像はできる。

要するに、社会が作り上げた典型的タイプから自分が外れていて、それなりに焦りと悲哀があり、それにスポットライトを当てられたのが辛くて、「そんなの興味ない」とそっぽを向いて見せたのかな、と。

自分のありのままの全てを受け入れてくれる人がこの世の中のどこかにいる、という壮大な幻想

いない、そんな人まじでいない。
仮にいたとしても、その人は「誰にとってもマジで大天使」です。
誰にとっても運命の人。

人間は相対的な観点から物事を認識していく生き物だと思う。
背の高い人を見て、私はその人よりも背が小さいと認識する。
切長一重と二重ぱっちりの人を見て、私は前者がタイプだと認識する。
など。

目の前の人が自分の意見や嗜好と異なるということは、自己を認識する機会でもあり、差異を認識するための会話は新しい発見と価値観の会得に直接繋がっていく。

その会話が、なぜか次の日や、数年後のなんともない場面でふと思い出されて、科学的には説明のつかないノスタルジーを生んだりするのにね。

上記をより深ぼってみたのですが、まだまだ考える余地はあるなと思っています。


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