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更級日記を旅しよう  杉本苑子著

更級日記を読むそれも、ひと味違う現代語訳をと、探したところ著者が日記に沿って旅をするという本書がありました。面白く読みました。 
都から遥か遠い上総の国で育った十三歳の少女が、父親菅原孝標の帰任で京に戻る、道中が詳しく書かれている、たった三ヶ月旅が日記の四分の一に当たる、四分の三が四十年の心の軌跡です、任地の上総とは千葉県の市原市、日記にしたがって、著者は市原から、日記に書かれた地名を歩きに京都へ。所々の様子を現在と比較したり、ところに、まつわる話言い伝えなども書いていますのでこれが良いのです。さて、彼女の実母は夫の赴任に同行せず、同行したのは継母東宮大進高階成行女、田舎暮らしのづれずれに、継母や姉の語って聞かせる物語の世界に、憧れをいだくすでに源氏物語が十年以上前に書かれていた。京に戻ると憧れの物語を手に入れて夢中になり、夕顔や浮舟のように、なれたらと密かに望んだ、だが姉が亡くなり、父が隠退し母が尼なって父とは、家庭内で別居状態、姉の忘れ形見を、育て事実上の主婦の立場に、継母は子を連れ離婚して、宮中に出仕、上総大輔を名乗る、三十二歳の時、裕子内親王よりお召しを受け、出仕したところが十日で退出してしまう。何分お仕えする裕子内親王は二歳の幼児、世間知らずが初めて他人の中に混じって気後れをしたということ、その年の末、宮家の灌仏会に出仕し、以後は里にこもる。三十三才、橘俊通と結婚、俊通下野守に任ず、任地へは同行せず、宮家の人々は孝標女に、好感を抱き、どうなさったの、出てらっしゃいよ、折に触れて誘いの声をかけてきてくれた。ですから気が向くと参っていた、正式に奉公した期間が短かったわりに、仲良しの同僚が何人もできて、その人達と歌を詠みあったり、おしゃべりをしたり夫の不在中で、子育ての合間のよい気散じになったらしい。仲良くなった同僚の中に、関白付きの女房もいて、それこそ贅をきわめた、上卿の暮らしの一端を、孝標女は垣間見る機会に恵まれたわけです。おかげで唯一、日記に彩りを加えることができた。その人の名は、源資通、宇多源氏の流れを汲む皇胤の一人、いつもの気ままな伺候をして、友人の局で語り交わしているところに、資通が通りかかり、おや、ここにわたしの存上ない女房衆がおられますね、といってしばらく雑談の、仲間入りをして、のちに四季の内、春と秋が優れているが,さらに春と秋、比べればどちらが勝っているだろう。あなた方はどちらがお好きか、と資通が提起します。同僚の女房は秋の肩を持ちます、孝標女は同じ返事をするのも、曲がないので春をひいきして、詠みました。資通はひどく興に入った様子で、この歌を口ずさみこまやかに感想をのべ、いかにも名残惜しげな、優雅な身ごなしで、立ち去っていった。資通は三十八歳、夫俊通四十一歳、孝標女はかって身近の男どもの口から、こんな垢抜けた科白を聞いたことがあったか、男女の機微に触れる洗練された、会話などおよそ不得手な家人、資通にすればこの程度のあしらい方は日常茶飯事、孝標女に特別な感情を抱いたわけではなく、女房二人をどこまでも一組と扱って、片方だけに重点を置くような不粋な態度はしません。この時孝標女は三十五の子持になっていました、その後御所で、資通を見かけひと言二言交わしているが、関わりは絶えました。日記には、ここのくだりを紙数を費やして書いています。資通との春秋問答は唯一のロマンティックな部分です。夫の橘俊通が、帰洛このころから孝標女は、やたらと寺に参詣に出かけます。夫が任官します、今度は信濃の國司、中秋の八月に、十七になった息子の仲俊も、父に従って信州に下向したのです。翌年の四月にいきなり、俊通が、上京してきたのです。四年の任期まだ八か月しか経っていませんでした。身体に変調をきたしたからです。そして病み付し、十月五日儚く亡くなってしまった。享年五十七歳。孝標女は五十一歳。過ぎ来し方を悔恨し、夫の存命中は子らはもとより、甥や姪たちまで賑やかに暮らした、大家族次々に独り立ちし、去っていく、そんなある夜、珍しく見舞ってくれた甥に、姥捨の歌を詠む。[月もいでで闇にくれたる姨捨に、なにとて今宵たづね来つらむ]信濃は月の名所、夫の最後の任地、[ひまもなき涙に曇る心にも、明かしと見ゆる月の影かな]夫を偲んで詠む。わたしも何か書いてみたいと、昔の記憶をもとに、書いたものの、突っ込みは少々足りなくても、好感が持てると、著者は書いています。孝標女の参籠した寺、鞍馬寺、清水寺、広隆寺、法性寺、石山寺、住吉大社、春日大社、長谷寺、比叡山、嵐山、東山、石津、竹生島。なんということ、受領階級は派手に遊ぶ、清少納言が受領の女房が騒々しく寺参りするさまを、皮肉って書いています。本人も受領の娘なのに。
父のこと、菅原孝標は菅原道真から五代目にあたる、押しも押され学者の家に生まれながら、学者としての能力識見に、かけていたらしく受領で終わる。
母のこと、孝標女の母は、道綱母の妹です、蜻蛉日記に年の離れた妹が生まれたとある。この叔母の蜻蛉日記は、勿論読んだことでしょうね。そして父孝標は二十五の時に東宮蔵人を、勤めますこの時の上司は道綱なのです!
この日記は不思議なことに、家族のことが皆無といっていいほど、書いてありません。更級とは信州のことを言います。
兄弟のこと、定義は家学を復興して大学頭、文章博士に任ぜられ、氏長者となって、菅原一門の頂点に立つ身になり、没後、位階も追贈され、最後に従一位に上り詰めて、北野新一位と世人にあがめられた、大した人。もう一人の、兄基円も僧としての修行を積んで、太宰府安楽寺の別当職についています。この慶事なども、一行も書いてないのです。
更級日記を書き写した、歌人の藤原定家によると、孝標女はすぐれた物語作家でもあったらしく、夜半の寝覚,御津の浜松,みづから悔ゆる、朝倉,はこの日記の人の作られたるぞ,と仮名奥書きに書きつけている、夜半の寝覚,浜松中納言物語のニ作品は現存しているとのこと。読みたいものです。
藤原定家が写本したことで、沢山の人に読まれ、世に知られたので、重要文化財の、石山寺縁起絵巻に、孝標女が石山寺に、参詣した場面が美しい雪の風景と共に、描かれました。十四世紀、伝高階隆兼筆、ちなみに、更級日記の書かれたのは、十一世紀、蜻蛉日記は、十世紀後半です。

 


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