「(家政婦ならぬ)皿洗いは見た!」

けいこです。

今日はボランティアの皿洗いから見えてきた「コミュニケーション能力」(以下、コミュ力と略す)について書く。市川悦子がドアの隙間からのぞいている姿ではなく、米倉涼子をイメージして読んでね、笑。

日本では英語を教える、つまり学生に英語のコミュニケーション能力をつける、ということを仕事にしていた。社会人に求められている能力の最たるもののひとつがコミュニケーション能力(英語に限らず日本語でも)だと言われている。しかし、具体的にはどういうことか、場面によって必要とされているコミュ力が異なるから定義しようとすると、なかなか難しい。

特に今は教える仕事をしていないので、あくまでも「皿洗い」担当の私が経験した角度からコミュ力について振り返りたい。

私にボランティアという立場で皿洗いをする、という「タスク」を遂行するコミュ力がある「ある」と言っていいいと思う。事前のマニュアルを理解したり、キッチンに立って色々な指示を理解したり、不明なことがあれば質問し回答を理解するという能力はある。

ただ、以上の基本的なタスクを遂行するだけのコミュ力でいいのか、というと社会で活躍するにはそれだけでは不足だ。まさに必要とされているのは、これ以上のコミュ力だ。

例を挙げると、先日の投稿で私が切ったデザート用のケーキの大きさがバラバラだったと書いた。日本だったら「すみませ〜ん」とすぐ謝ると思う。謝る人=いい人という常識があるから。

でもNZでは、謝らなかった。これは「謝る」という行為は私のパフォーマンスが、シェフの期待したものと照らし合わせてその基準に達してないことを意味する。でもそんなこと繰り返したら、「能力のない人」とみられてしまうので、自分でも「あれ?ちょっとばらつきあるかな?」と思っても「これが私の基準なんです。何か?」みたいな自分の基準に自信を持つ態度が必要だから、謝らない。謝る人=いい人はここでは通用しない。謝る人=能力のない人・自信のない人になっちゃうから。NZというコンテクストではコミュニケーションを考えると、謝らないと判断した方がよいと思ったから。

どういう場合にどういう意図で言語化するかを決定する力もコミュ力の大事な点だ。

別の例を挙げてみよう。キッチンに立っている間は、仕事がルーチン化してるから、それほどコミュ力は必要ない。「くせもの」は休憩時間だ。キッチンの隣に小さい会議室がありその中には大きなテーブルが一つある。それぞれ手の空いている人が休憩がてらその日の夕食を食べる。

ここで難しいのは、それぞれの時間も決まってないし、ボランティアに定期的にきている人もいれば、たまにくる人、初めての人もいる。先日の投稿で書いたように出身国も年齢も文化背景もバラバラ。この中で「会話する」と言うコミュ力が問われるこの時間のハードルがかなり高い。

こう言う場面で必要なのは、言語の背景にあるコンテクストを的確に読み取り、それを踏まえた上で会話を続ける必要があるという高度なコミュ力だ。

一例をとると、2日続けて一緒になったとっても有能でフレンドリーな男性に「明日も来るの?」と聞いたところ「I'll have my son tomorrow, so no (明日は息子が来るから来られないんだ)」との返答。

この英語の1文にはたくさんの情報(背景)が詰まっている。この男性は離婚していて子供と離れて暮らしているが、毎週定期的に子供が泊まりに来るという生活をしている、子供が来ることをとても楽しみにしている、と言うことを即座に理解する必要がある。なので、私は「え〜、いいわね。お子さん何歳?」と会話を続けた。

さらに、こう言う話題もフツーの会話に話す、つまりこう言うことが離婚率の高いNZは当たり前のことになっている、と言う社会的言語的な知識も必要だ。そういえば、TVのコマーシャルで、通勤途中の女性が「今は風邪でダウンできないわ。今週末は子供が来ることになっているから」という設定になっていた。こういう設定が普通だという点と点が繋がる。

一番ラッキーだった会話は、NZ人の女性と一緒になった時。私が日本人だというと、「日本語話せますよ〜」といきなり日本語にスイッチオン!聞けば、お昼間は弁護士の仕事をして夜はここでボランティアをしてるとか。

高校の時に長崎の佐世保に留学したとのこと。ここでは接点がなかったけど、大学は一橋大学だったと。私の弟も一橋出身なので、点が繋がった。お互いの歳を言い合い、弟とはキャンパスで会うことはなかったにしろ「共通点」が見つかったことで一気に距離が縮まる。最後には「日本の曲のカラオケが好きです!」とのことなので今度は一緒に行こう、という話にまでなった。ただし、ここは社交辞令50%くらいという文化背景も理解して会話を終える。

上記は成功例。会話がを思ったよりも続けられなかった例は、私の知識不足によることが多い。オークランド市のそれぞれのsuburb(町)を知っているわけではないので、自己紹介した時にPukekoheから来てる、と言われてもどこにあるのか、どんなことがあるのか全く背景知識がないから、会話を続けることができない。

他には、ジャニーズ系の可愛い男の子としっかり者の女の子の高校生二人と一緒にテーブルに座った時。男の子が自分たちの高校名を言ってくれたが、名前からカソリック系の私立の学校ということはわかったがそれ以外にはその高校がどこにあってどんな評判で、ということについての知識がなかったので、こちらも会話を続けることができなかった。点と点が繋がらなかったわけだ。

コミュニケーション能力って、もちろん発音や語彙(これは大きい!語彙が解らなければ話にならない)文法もある程度必要だ。でもそれと同じくらい大事なのは、その言葉が発せられている背景知識を瞬時に読み取り、それに相応しい応答をすることが大切だ。

それには普段からいろんな情報や知識を得られるように努力したり、多様な経験をしておくことが必要である。コミュニケーションとは、そういうことを点と点で繋いでいく作業だから。

ちなみにボランティアの後、イギリス人の友人(オックスフォード大出身の男性)にボランティアでの夕食をとりながら会話することはハードルが高いよ、という話をしていたら、彼はそんな勇気のいることはできない、それくらいなら夕食食べないな、けいこは勇気があるよ、と褒めてくれた。

人と話すって、すなわちコミュニケーションとるって、容易なことではないんだよね。だからそれができる人が重宝されるってわけだ。

こういうコミュニケーション力って誰にとっても簡単なことではなく、大なり小なりみんな苦手意識があったり、ちょっと「えいや!」って自分を鼓舞する必要があることが多い。

だからこそ、普段から多岐にわたる話題や経験をしておくと引き出しが増えて、意外な時にそれがコミュニケーションのきっかけになったりする。一長一短に身につかないからこそコミュニケーション能力が貴重で重宝されるのだろう。

こういった人間の能力は、AIには遂行可能ではない、という人もいる。対人関係を築くコミュニケーションこそまさに人間が持っている能力だと。でも上記のように点と点を繋いでいく知識を持っているのはAIの方が人間のそれより遥かに優れている。

もしかしたら、(多くの人が苦手としているであろう)コミュニケーション能力をAIが助けてくれる日が来るかもしれない。。。



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