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日記は、優しい形式です


2024年2月7日(水)


ふつう、日記というのは1日の終わりに書くものだろうが、なんと、2024年の2月7日をまだベッドの上でしか過ごしていないというのにも関わらず、これを2月7日分として書いている。

書きためている下書きがいよいよなくなってきた、いや、10本くらいあるのだけれど、あたためているうちに公開するタイミングがなくなってしまったり。

思いのままに毎日書いて、その文章が生きているうちに、ポンと全世界へ公開してしまう方が気楽だと思って、今、新規に作成画面を開き、思いのままに書いている。

日記は、優しい形式です。
 私はひとりの生活者として、日記という器にずいぶん助けられてきました。初めて日記を書いた記憶は、小学生まで遡ります。『アンネの日記』に触発されて、『モモ』に出てくる亀のカシオペイアに語りかける文体で威勢よく始めたそれは、きっちり三日坊主に終わりました。
 小説家の富岡多恵子さんが、「私生活と私小説」(講談社文芸文庫『表現の風景』所収)という文章のなかでこんなふうに書いています。「日記帳を買うひとの多くが、それを三日坊主に終わらせるのは「日常」を記す退屈と困難に降参してしまうからであろう」。ほんとうにそのとおりです。
 それでも日記に「助けられて」きたと感じるのは、一日一日を生きている限り日記はいつでも何度でも書きはじめることができ、いつ書きやめても、毎日書かなくてもよく、誰にも読まれなくてもよく、また、ほんとうは誰に読まれてもよく、そういう緩さのなかで書くことを、日記という形式がいつも私に許してくれたからだと思います。

 日記を書くときと詩を書くとき、私の中に共通してあるのは「これを私が書かなければ、他の誰も書くことのないまま、これは過ぎ去って消えてしまうのだ」という、淡い寂しさのような気持ちです。一日ぶんの日記を書き終えるとき、私たちは一日という単位の旅の終わりを確かめて、それが溶けてなくなっていく寂しさに慣れ親しむのかもしれません(そうすることで「日常」の退屈と困難から解かれ、「助けられて」いるのかもしれません)。
 日記は、優しい形式です。一緒に寂しくなりましょう。

詩人 大崎清夏さんの言葉

毎日更新し続けようと思ってnoteをはじめたわけではない。けれど、毎日更新することの味を占めてしまったといいますか、とにかく駄文でも良いので何かしら書きたい気持ちが湧く。

もともと手書きのノートに感じたことを書く習慣があるのに、加えてnoteも更新しているのは、手書きのノートに書いた思いのままの文章を少し整えて、エッセイとしたかったから。

それから何より、自分の生活を、感じたことを、誰かが気軽に手にとれる形にしたいという下心だ。それも、現実世界で知っている人にも手に取ってほしいという下心。

読み手を意識した「ノートの使い方のマガジンを作りました」とか「マイルールを紹介します」なんて記事もあるけれど、本来わたしが目指したいのは、ひとりごとのような、伝えたいこともオチもない、ただ感じたことをそのままに書いた素直な文章。

ま、ノートの使い方やマイルールも更新するけれどね。

というわけで、今、日付が変わってすぐ、素直に素直に書いているわけ。書きたいのよ。

できれば、今後も毎日書きたいと思っている。毎日いろんな時間に、いろんなテンションで書いているから、文体の統一など測れないし、書いていることに一貫性持たせられないだろう。

この、今日書いた「毎日書きたいと思っている」という言葉でさえ、明日には達成できていないかもしれない。

だけど「自分の気持ちの変化を否定しないこと」がマイルールの中にもあるし、それに、日記は、1番初めに日付を書くだけで、なんでも受け入れてくれる優しい形式なのだから。

ああ、2月6日もよく笑ったよ、生きてるなあ。

先日の大雪の夜は、メンデルスゾーンの無言歌集を聴いていた。毎年この時期にメンデルスゾーンが聴きたくなる。寒いから、春そのものような音楽を聴きたくなるということなのかしら。

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