斎藤佑樹の夢 Yu May Dream
早稲田実業、早稲田大学、北海道日本ハムファイターズでプレーした斎藤佑樹さんが民放の報道番組でキャスターとして「デビュー」を果たした。
同時に、自身のYoutubeチャンネルを開設し、「少年野球のための野球場をつくる」と宣言して、その活動を中心に配信を行っていくという。
https://www.youtube.com/@Yuki_Saito-Ch
斎藤佑樹さんは現役を引退後、「株式会社斎藤佑樹」を設立して、社長に就任した。
テレビCMや、高校野球に関する番組への出演、海外の野球に関する番組のホスト役として海外で取材するなど、メディアにも断続的に露出していた。
彼の「野球場をつくりたい」という夢は以前から「公言」していたので、特に驚きではない。
野球場といえば、目下、アメリカでプレーしている筒香嘉智選手も2億円ともいわれる私費を投じて、地元・和歌山に立派な球場をつくって話題になった。
「甲子園」で優勝投手、「神宮」で「30勝・300奪三振」は史上初、唯一無二の快挙
ぼくは、斎藤佑樹さんの野球界への貢献は多大なるものがあると思っている。
斎藤さんは高校時代は早稲田実業のエースとして、甲子園に颯爽と登場した。
「ハンカチ王子」として世間を沸かせただけなく、2006年夏の大会の決勝では田中将大投手を擁する駒大苫小牧高校と対戦、引き分け再試合という「死闘」の末、早稲田実業として初となる悲願の優勝をもたらした。
この大会で斎藤さんが投じた69イニング、948球は甲子園大会史上最多、78奪三振は歴代2位と、記憶にも記録に残る投手となった。
2007年に早稲田大学に進んでからは、期待通り、1年生からエースを務めた。
東京六大学野球春季リーグ戦の開幕戦、対東京大学戦で先発を務めて、勝利投手になった。同リーグでの1年生春の開幕投手での勝利は、1927年の慶應義塾大学の宮武三郎(のちの阪急)以来、80年ぶりという快挙だった。
そして、春も夏も早稲田がリーグ戦の優勝を決めた試合で勝利投手となり、早稲田3季連続Vに貢献したのである。
4年生になると、早稲田大学野球部第100代主将となった。最後の秋のリーグ戦では、優勝を懸けた早慶戦で先発し、神宮球場に詰めかけた3万6000人という大観衆を前に、8回までノーヒットノーランという快投を見せ、早稲田に優勝をもたらして「有終の美」を飾った。
その後、第41回明治神宮野球大会・大学の部でも、1回戦から決勝戦まで登板、同大会において早稲田大学の初優勝に貢献するという、「ダブル優勝」で締めくくった。
結局、斎藤さんは東京六大学野球リーグで通算31勝を挙げた。
これは同リーグ史上14位タイで、早稲田大学野球部の投手としては、末吉俊信、若原正蔵、安藤元博、織田淳哉(巨人)に次ぎ、三澤興一(巨人、近鉄)に並び5位タイである。
そして、通算323奪三振は、東京六大学野球リーグ史上11位であり、早稲田大学の投手としては、織田淳哉、三澤興一に次いで3位である。
東京六大学野球リーグで「通算30勝・300奪三振」に到達したのは史上6人目であった。
同リーグで通算30勝以上の投手は22人、通算300奪三振以上の投手は16人いる。
しかし、この両方を達成したのは、過去に明治大学の秋山登(のちの大洋)、法政大学の江川卓(のちの巨人)、早稲田大学の織田淳哉(のちの巨人)、三澤興一(のちの巨人・近鉄)、慶応義塾大学の加藤幹典(のちのヤクルト)の5人だけという偉業である(その後、明治大学の野村祐輔(のちの広島)も達成して7人)。
しかも、この7人の中で、高校時代に甲子園大会で優勝投手になったのは斎藤さんだけである。
すなわち、高校・大学を通じて、近年、こんなに学生野球に貢献した選手は稀有なのである。
斎藤さんが歴史ある「甲子園」「神宮」という両方の舞台で活躍したことはもっと語られてよいと思う。
野球は、メジャーリーグやNPBがすべてではない。
これらのプロリーグは、アマチュア野球の健全な隆盛があって初めて成り立つのである。
斎藤さんが少年・少女のために野球場をつくるという夢は、彼の学生野球への貢献を考えれば、地続きなものだと思う。
逆に彼がいままで野球から受け取ったものを後の世代に返したい、という気持ちの表れだと感じる。
斎藤佑樹さんにはぜひ、様々な人たちを巻き込んで、自身の夢だけなく、野球をプレーする少年・少女のための「夢のフィールド」をつくってほしいと思う。
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