【日本シリーズ第4戦】ヤクルト石川雅規、71年ぶりの40代勝利投手に

東京ヤクルトスワローズの左腕、石川雅規がプロ20年目にして待望の日本シリーズ初勝利を手にした。

11月24日、日本シリーズの第4戦(東京ドーム)、ヤクルトは石川雅規が先発マウンドへ。
石川にとっては、日本シリーズの初マウンドとなった2015年、対ソフトバンクの第1戦、第5戦に先発して以来となる。
しかし、ヤフオクドームでの第1戦は4回3失点、神宮球場での第5戦は5回途中で4失点と、2試合とも敗戦投手となり、ヤクルトは2勝4敗で日本一も逃している。

石川は立ち上がり、慎重な投球で2回まで41球を要したが、130キロを下回るストレートと変化球の出し入れでオリックス打線を翻弄する。
ヤクルト打線はオリックス先発の山﨑颯一郎から2回にドミンゴ・サンタナのシリーズ2号ソロホームランで先制点を奪うと、石川は5回まで被安打1、無失点に抑えた。
オリックスは6回に2死一塁から宗のライト前ヒットを右翼手のサンタナがジャッグルする間に、一塁走者の福田周平が長躯、ホームイン。
石川は1点を失い、同点に追いつかれ、結局、この回でマウンドを降りた。
その裏、ヤクルト打線はオリックス2番手の増井浩俊から先頭・山田哲人が四球を選んだ後、4番・村上宗隆のファーストライナーダブルプレーでチャンスを潰し懸けたが、再びサンタナの四球を足掛かりに中村悠平とホセ・オスナの連続安打で1点を奪い、石川雅規に勝利投手の権利が復活した。

ヤクルトは7回から石山泰稚、清水昇、スコット・マクガフの継投でオリックス打線の反撃を断ち切って、シリーズ3連勝。
20年ぶりの日本シリーズ制覇に王手を懸けると同時に、石川雅規は嬉しい日本シリーズ初勝利を手にした。
石川は6回、77球を投げて被安打3、5奪三振、1四球、1失点(自責点0)という内容だった。

1950年に始まった日本シリーズで40代の投手が登板したのは、石川雅規で7人目となる。

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日本シリーズ勝利投手第1号は、42歳の若林忠志、しかも延長12回完投

その第1号は、1950年、「第1回日本ワールドシリーズ」の初戦に、毎日オリオンズの先発としてマウンドに上がった若林忠志で当時、42歳8か月。

若林は一リーグ時代に大阪タイガース・阪神タイガースでは通算233勝を挙げている大ベテランで、この年からパシフィック・リーグに加盟した毎日オリオンズに自らの意思で移籍して、投手兼監督となった
(ただし、実際には総監督の湯浅禎夫が指揮を執っていた)。

その甲斐あって、毎日はパ・リーグ創設初年度からリーグ優勝を果たし、日本シリーズにも進出した。
若林自身はシーズンでは14試合に登板、4勝3敗、防御率3.70と衰えは隠せなかったが、それでもは自ら志願してシリーズ第1戦に先発。
松竹の新人エース、大島信雄と投げ合うと、若林は松竹の「水爆打線」を相手にもうすぐ43歳を迎えるとは思えない投球を見せ、試合は1-1のまま延長に突入。
毎日は延長12回表、2死から新人の伊藤庄七がレフトオーバーのタイムリー二塁打を放って2点を勝ち越し、その裏、若林が続投。
すると、松竹は投手としてシーズン39勝を挙げたエースの真田重男(のちの重蔵)が打撃の良さを買われて代打で登場、ライト前ヒットを放ち、さらに荒川昇治の連打で無死一、二塁のチャンスをつくったが、その後、若林は二死を取り、最後に金山次郎に投じた161球目でショートゴロに打ち取ってゲームセット。
若林は日本シリーズの記念すべき最初の勝利投手となった

若林は第4戦(西宮球場)にも先発、9回を120球で投げ切ったが、5失点で敗戦投手となった。
さらに、毎日が3勝2敗で迎えた第6戦(大阪球場)、7-4と3点リードした4回途中、無死一、二塁から若林は2番手としてマウンドに上がった。
若林は小鶴誠にライト前ヒットを浴びて、無死満塁のピンチを迎えると、打者は「神主打法」の4番・岩本義行を迎えた。
岩本はこの試合、すでに2打席連続でホームランを放っていた。
ここで若林はあっと驚く奇手に出た。
若林は岩本を敬遠で歩かせたのである。
(NPBではこの後、レギュラーシーズンでも「満塁敬遠」は、1975年10月19日、中日対広島戦で井上弘昭(中日)が山本浩二(広島)との首位打者のタイトル争いのため、無死満塁から四球を与えられたというケースの一度しかない)

これで毎日は7-5と2点のリードに縮まった。
さらに無死満塁とピンチは続き、若林は次打者の大岡虎雄にはセンターへ犠牲フライを打たれて、7-6と1点差に詰め寄られる。
それでも若林はなんとか松竹の反撃を断ち切った。
若林はそのまま6回以降も続投したが、8回に1点を失ってついに同点に追いつかれた。ここで若林はマウンドを降りた。

試合は延長に突入したが、追加点のないまま、ついに延長11回裏。
毎日の攻撃は二死一、三塁から4番・伊藤庄七が打った打球は三塁へ。
松竹は延長10回の攻撃で遊撃手の三村勲が走塁時のアクシデントで負傷交代していた。松竹は内野手が足らなくなったことで、エースの真田が三塁を守っていた。打球はその真田の前に飛んだ。
真田がゴロを処理して二塁に送球してスリーアウトチェンジになるはずが、ベースカバーに入った二塁手の金山次郎が一塁走者の別当薫と交錯、落球する間に、三塁走者・河内卓司が本塁に生還した。
呆気ない決着であったが、毎日がサヨナラ勝ちを収めて初代日本シリーズ制覇を決めた。

その後、日本シリーズでは40代の投手でマウンドに上がったのは、1985年に高橋直樹(西武)、1995年に佐藤義則(オリックス)、2006年・2010年に山本昌(中日)、2013年に斎藤隆(楽天)、2016年に黒田博樹(広島)がいるが、いずれも勝利投手になっていない。

したがって、石川雅規は40代の投手として若林忠志以来、71年ぶりに日本シリーズで勝利を挙げたことになり、左腕投手としては、2002年の日本シリーズで工藤公康(巨人)が39歳5か月で挙げた最高齢勝利を更新した。

石川はレギュラーシーズンでの通算勝利数が177勝(176敗)だが、ここにさらに特別な「日本シリーズ1勝」が積みあがった。


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