108.モロッコ旅行 2/4

モロッコ旅行 1/4より続く

翌朝、ホテルの人にシャワーカーテンを壊してしまったことを詫びると、こちらこそ申し訳なかった、お怪我はありませんでしたかと謝られ、高額の修理費を請求されたらとの心配は杞憂に終わりホッとしました。

不幸中の幸いというか、カーテンレールのお陰で力が分散されたのか、頭も打たず、怪我もせずに済みました。変な味のミネラルウォーターは、歯磨き用にすることにしました。

とにかく初めての国に日が暮れてから到着してはならないと肝に命じました。そして、到着日のホテルはあらかじめ予約しておくこと、この二点だけはこれから必ず守ろうと思いました。エジプト旅行の時(084.ナイルの水を飲むものは)はガイドブックを入念に読み込んでから行きましたが、今回は勢いでやってきてしまった上、頼りになる日本語のガイドブックもないので、まずは安心できるホテルを確保して、ゆっくり睡眠を取り、万全の態勢で街に出ようと思いました。

インドシナ戦争従軍

今度はリストの上から7、8番目に載っている最高級ではないけれど、フランス資本の中級ホテルに電話で予約を入れ、タクシーで向かうことにしました。

タクシーに乗ると、初老の運転手さんにどこから来たのか?と聞かれました。私が日本から来たと答えると、日本から直接来たのか?と重ねて聞いてくるので、いえ、パリを経由して来ましたと答えました。すると、運転手さんは、ではパリの街を歩いたのか?というので、はい、歩きましたと答えると、どうだった? パリはきれいな街だろうと自慢げに言いました。

私が、ええ、パリはきれいなところですねと答えると、ところで日本にはメトロはあるのかね?と問うのです。私が、はい、日本にもメトロはありますよと答えると、いや、ちょっと待ってくれ、パリのメトロは地下を走るメトロと地上を走るメトロと両方あるんだぞとちょっと誇らしげに言いました。私が日本のメトロにも地下を走るメトロと地上を走るメトロと両方ありますと答えると、なんだ、日本にも両方あるのかと少し残念そうでした。

すると運転手さんは、何を隠そうこの私はフランス軍兵士の一員としてインドシナ戦争に従軍したことがあるのだよと胸を張って語るのでした。私が1954年のインドシナ戦争のことですか? と問い直すと、そうさ、フランス軍兵士の一員だったのだよとハンドルから手を離すとベレー帽なのか両手で帽子をキリリとかぶる仕草をしました。

私はなんと答えてよいのか言葉に詰まりました。私がこれまで学校や日本社会から学んできた植民地政策というものの概念が、大きく揺らぐのを感じました。運転手さんは、フランス軍兵士としてインドシナ、つまりベトナムの独立反対のための戦線に赴いていたというのです。モロッコ自体がフランスからの独立したのが確か1956年だったはずでした。

私は、近藤紘一の『サイゴンから来た妻と娘』シリーズを読んで、それなりにインドシナ半島の歴史を理解したつもりになっていましたが、いざ質問しようと思うと、歴史がまったく頭に入っていないことに気づきました。その上、私のフランス語力では従軍の経緯などのこみいった質問はできそうもありませんでした。

私が心の中で動揺しているうちに、タクシーは中級ホテルに到着してしまいました。植民地の兵士が、別の植民地戦争に駆り出されていく証言を聞くことができるという、願ってもないチャンスが目の前にあったと言うのに、私は自分の知識不足と語学力不足で何も質問できず、なんとも情けない思いでした。

この時の会話は、それ以降の人生で何度も反芻してきました。モロッコ人にとっては東洋人の顔を見分けることは難しいだろうから、私のことをベトナム人だと思って、懐かしくも悲惨だったベトナムのその後を聞きたかったのだろうかなどとあれこれ考えました。

◇ ◇ ◇

午後、カサブランカの街中を歩いていると、赤い派手な衣装に身を包んだ水売りのおじさんとすれ違ったり、子どもたちとすれ違ったりしました。子どもたちは、前の年に行ったエジプトの子どもとは違ってパジャマは着ておらず、私を見てもあとをついてくることもありませんでした。

道を尋ねようと女性を選んで話しかけると、女性にはフランス語はまったく通じないようでした。女性の多くはヒジャブと呼ばれるスカーフで頭を覆っていましたが、ヒジャブをしていない人もわずかですが見かけました。カサブランカではひとりで歩いている女性も珍しくはありませんでした。エジプトでは現地の女性がひとりで歩いているのを見かけたことはなかったと思いました。

私はイスラム美術の魅力に心惹かれ続けているのですが、道の両側の家々の細かい装飾も美しかったし、ところどころにある大きなモスクは、うっとりするほど美しいものでした。

アイドル歌手の自殺

ホテルのレストランで並んでいるとフランス人のご夫婦に話しかけられました。もしかしてあなたは日本人ですか? はいそうですと答えると、あの自殺した女の子のことだけれどといきなり本題に入ってきました。私がわからずにいると、ほら、あの有名なアイドル歌手の女の子、可愛らしい顔をした女の子、突然飛び降りて死んでしまった歌手のことですよと言われたのです。

あとになって思い返せば、それは前年1986年に18歳で自ら命を絶った歌手・岡田由希子のことを指していたと思われますが、ちょうど彼女が亡くなった時私はフランス滞在中だったので、そのニュースをリアルタイムで知らなかったため、とっさに誰のことを言われているのかわかりませんでした。

私が戸惑っていると、日本人はどうして自ら命を絶つのですか? 若い女の子が自ら命を絶つなんて、教育者として、ええ、私はフランスで教員をしているのですが、一度日本人にこの自殺問題について尋ねてみたいと思っていたのですと言われました。

アフリカ大陸の北西の端で、日本人の歌手の自殺にフランス人夫婦が心を痛めているという話を聞いて私は大変驚きました。その時、岡田由希子と結びつかなかったとはいえ、日本のトップアイドルの情報は今や世界中で報道されているのかと、そんなことに感心していました。

この時も私は満足な返答もできませんでした。ハラキリやカミカゼ、日本人の自害や自殺については欧米人の関心事であることは前々から知っていましたが、私はそれについてなんの見識も持たずただぼんやりと生きてきたのだと思いました。答えられないのならば、せめてご夫妻の日本人の自殺に対する考え方をきちんと伺えば良かったとあとになって思いました。

世界をひとり歩くという、数十年前ならとてもできないような体験をしていると言うのに、自分の知識や見識不足、そして語学力不足をまたしても痛感することになりました。

「地球の歩き方」@マラケシュ

手元のパンフレットによれば、モロッコ観光ならば、やはりマラケシュやフェズのような古都がお薦めと書かれています。マラケシュとは、11世紀から栄えたモロッコ第四の都市のことでした。日本で言えば京都といったところでしょうか。

そこで朝早く中級ホテルをあとにして、列車でマラケシュに移動しました。まだ太陽が高い時間に到着するようにして、現地の観光案内所でホテルを決めようと思いました。そして、マラケシュに着いてウロウロしていると、大勢の自称ガイドに取り囲まれて、口々に私を雇わないかと猛烈なアタックを受けることになりました。

断っても振り切っても、束になってやってくるガイド軍団に、ちょっとこれは困ったことになったと思っていると、向こうから、ひとりの東洋人の青年がやって来るのが見えました。よく見ると手にはクリーム色の「地球の歩き方」があるではありませんか! 地獄に仏を見た表情をした(と思われる)私のことを、その青年もめざとく見つけてくれて、まるで磁石が吸い寄せられるように互いに会話をすることになりました。

とにかくお互い困っていることは一目瞭然でした。私には日本語のガイドブックとボディガードが必要だったし、彼には通訳が必要でした。どちらかが何を言うわけでもなく、私たちは共に行動することが決まりました。

彼はパリでこれから働くことになる日本人青年でした。まだ赴任してきたばかりだったので英語はともかくフランス語は覚束なくて、とりあえずやってきたモロッコ旅行でもなかなか苦戦しているようでした。

しかし同胞に会って安心したのも束の間、単に一人が二人になっただけで根本的な状況は変わっておらず、自称ガイド軍団のアピールは強烈で、数メートル前に進むのも容易ではありませんでした。そこで二人で話し合って、あまり押しの強くない、なんとなく人の良さそうなひとりのガイドさんを雇うことにしました。料金は一日500円位だということでした。

すると驚いたことに、彼と契約した途端、あれほど大勢いたガイド軍団は波が引くように一斉にいなくなりました。そしてガイドさんが案内してくれるまま小道に入ると、そこは手工業を営む家々が並んでいました。私たちが行くと手を止めていた人々もまるでガイドさんの顔を立てるように、作業に取り掛かってカメラのシャッターチャンスを作ってくれるのでした。「霊験あらたか」というのはこういうことを指すのではないかと思いました。

革製品を細工する人、真鍮製品を作っている人、鍛冶屋さん、刺繍をする女性、色んな小間物を売っている人々、彼らは、私たちが近づくとすぐに作業に取り掛かって、カメラの前でいい表情をしてくれるのでした。

ガイドさんは、簡潔にお店の仕事内容や街の情報を伝えてくれました。私がそれを青年に日本語で説明し、青年は私のボストンバッグを持ってくれました。ガイドさんは結婚式が今まさに執り行われている家にも入って行って、私たちが見学できるように取り計らってくれました。花嫁さんは白いウェディングドレスの代わりに緑と青を基調にした色とりどりの民族衣装で着飾っていました。大勢の人々が祝福のために集まっていました。

街の人々はみんな知り合いのようで、互いに助け合って生きているような印象を受けました。もうひとつ印象的だったのは、街には障害者が大勢いることでした。片手や片脚のない人々も知的障害だと思われる人々もごく普通にあちこちにいました。きっと人口比としては日本も同じくらいいるだろうと思うのに、なぜ日本ではほとんど見かけないのかと疑問がムクムクと頭をもたげました。

ガイドさんはそういう人にも、やあとか、最近どう? などと声をかけながら、急がず、しかしポイントを外さずに街のあちらこちらを案内してくれました。そろそろくたびれてお腹もすいてきたという頃、ガイドさんがよかったらうちに来ないか?と誘ってくれました。もしも私一人だったら行かなかったとは思いますが「地球の歩き方」の青年と一緒だったので、二人でガイドさんの家へ行くことにしました。

彼の家に着くと、奥さんにお客さんだよと告げて、私たちにその辺に座って楽にしてくれと言いました。ガイドさんと奥さんが何やら現地語で話すと、まもなくお昼ご飯が出てきました。今も忘れられないのは、トマトときゅうりのサラダです。なんとみずみずしいサラダだったことでしょう。ただトマトときゅうりを刻んだだけのように思えるのですが、ドレッシングが決め手なのか、素晴らしく新鮮でおいしいサラダでした。

突然の訪問だったので、多分あれは普段の食事だと思われました。羊の肉の煮込み料理を少しとナンのようなパンも出してくれました。どれもおいしくいただきました。奥さんに話しかけても、フランス語はまったく通じなくて、私の知っている唯一のアラビア語「シュクラン」(ありがとう)と言うと、彼女は目を伏せてはにかむのでした。

食事代を支払おうとすると、ガイド料をもらっているからと受け取ってはくれません。結局二人分のガイド料として500円を支払っただけでした。二人だから千円をと言っても受け取ってはもらえませんでした。初日の空港からのタクシーとはまったく正反対の経験でした。

きちんと整頓された室内、青と白を基調としたインテリア、居心地のよいお住まいでした。お名前と住所を伺っておけば、帰国してからお礼の品物とカードでもお送りして、奥様によろしくと一言添えることもできたのにと、のちになって随分悔やんだ親切なガイドさんでした。

ガイドさんと別れ、二人で少し街歩きをしました。小学生の男の子が、高級レストランを指差して、ここは金持ちのアメリカ人から高い料金を取る店なんだ、入らない方がいいよと教えてくれたことも忘れられない思い出です。世界中どこにでもボッタクリのお店はあるようです。でも、日本人の少年は外国人にそういうことは教えないだろうし、そもそも子どもにはボッタクリだとは知られないようにするのが日本社会だと感じました。

コネクティングルーム

午後、あまり遅くならいうちに二人でホテルに行って、別々にシングルルームを取りました。夕食の時、連れがあるとレストランで色々注文できて、会話をしながら楽しい食事になった思い出があります。ただ昼間のガイドさんのお宅のランチがあまりにも素晴らしく印象的だったからか、夜、何を食べたのかは残念ながら覚えていません。

食後、明日の朝、朝食レストランでお会いましょうと別れ、それぞれの部屋へ入り早々にベッドに入って眠っていると、真夜中、部屋の扉がドンドンとノックされる音がして目が覚めました。寝ぼけまなこで扉を開けたら廊下には誰もいません。それでもまだドンドンとノックする音が聞こえています。どういうことだろうと思っていたら、どうやら部屋と部屋との間に扉があって、その扉がノックされているようでした。

かなり広いシングルルームでしたが、二つの部屋は内扉で行き来できるコネクティングルームになってることに私は初めて気づきました。緊急事態なのかと思って内扉を開けてみたら、そこには青年が思い詰めたような表情で立っていました。どうかしましたか? とたずねたら、そちらの部屋へ行ってもいいかと言われました。

とっさには何をいわれているかわかりませんでした。でも即座に、私はとても眠いので、明日の朝7時に約束通りレストランでお会いしましょうと言って扉を閉めて、内鍵をかけました。

モロッコ旅行 3/4へ続く


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