084.ナイルの水を飲む者は

大型コンテナ船がエジプトのスエズ運河で座礁し、世界の物流が大混乱に陥っているというテレビニュースで、エジプトの砂の大地の映像を眺めていたら、今から35年前に出かけたエジプト旅行のことを懐かしく思い出しました。

昭和61年(1986年)3月、私はエジプトへひとり観光旅行に行きました。昨年から海外旅行はおろか、国内旅行も自粛を強いられる日々の中ですが、せめてかつての旅の思い出に浸ってみようと思います。この35年間でエジプト観光を取り巻く世界情勢も随分と変化しました。

1. ガイドブックと入国ビザ

今手元に、手垢と土埃にまみれた古いガイドブックがあります。1984年発行の実業之日本社のブルーガイド『エジプト』です。このガイドブックは、ミニ辞典とでも呼ぶにふさわしい素晴らしいガイドブックでした。

旅の情報ページの冒頭に「空港で、まずエジプト的不思議を体験する」と見出しがあり、ビザ(入国査証)には次のように書かれています。

 48時間有効のトランジット・ビザか、3カ月有効だか、滞在が1カ月をこえるごとに更新しなければならないツーリスト・ビザが必要。
 日本でツーリング・ビザを取得するのは、エジプト・アラブ共和国大使館でできるが、個人旅行者の場合は、到着時にカイロ国際空港で取得することを勧める。
 まず入国手続きをする前に、入国カードとパスポートを持って銀行で150U.S.ドルをエジプト通貨に両替する。そこでもらったバンク・レシートと、入国カード、パスポートをそろえて入国審査カウンターに提出すると、ビザが取得できる。両替時にビザ取得手数料を取られる。入国審査カウンターでパスポートを別の場所に持って行かれる場合もあるが、心配せずに待っていること。
(後略)
『エジプト』ブルーガイド海外版第4版 吉村作治・近藤二郎執筆 実業之日本社(1984)p.284より 太字は引用者

エジプトに到着後、早速ガイドブックの案内通りに両替をし、レシートと共に入国カードとパスポートを揃えて提出しました。するとベレー帽をかぶった係員がそれらを受け取ると姿を消しました。なるほどガイドブックの通りだと思いました。

しかし5分経ち、10分経ち、15分経っても係員は戻ってきません。日本人らしき人も誰もいないし、こんな見知らぬ国の空港でパスポートもなく、ひとりで待ち続けるのはさすがに心細くなってきました。30分が過ぎました。

ガイドブックには「心配せずに待っていること」と書いてあります。わざわざそのように書いてあるということは、心配するような事態になるということなのだから、ここは「心配しないで待つことが重要なのだ」と何度も自分に言い聞かせました。

そうして45分程過ぎた頃、先程の係員が何事もなかったように戻ってきて、にこやかにパスポートを渡してくれました。パスポートにはいろんな色の印紙が貼られ、アラビア文字の入ったいろんな形のスタンプが押されていました。

この「心配せずに待っていること」というひと言だけで、このガイドブックは役割をほぼ果たしたと思えるほどでした。

2. 憧れのエジプトへ

昭和40年(1965年)、まだ小学校に入学する前の年に、ツタンカーメンの黄金のマスクが日本にやってきて以来、日本中の国を挙げてのエジプト文明に対する憧れはものすごいものがあって、私も大きくなったらバレリーナかピアニストか、はたまた考古学者になろうかと考えるほどでした。

中学生の頃に胸をときめかせながら読んだハワード・カーターの『ツタンカーメン発掘記』は長年の愛読書になりました。

1985年から私は1年間の予定でフランスに滞在していたのですが、世界地図を見ていたら、地中海を挟んですぐ向こう側にエジプトがあるのを見て、こんなに近いのならば欧州にいるうちに是非一度行ってみたいと思うようになりました。

そこで、日本の家族に頼んでガイドブックを送ってもらい良く読んでみました。読めば読むほどますます行きたくなり、思い切って航空券を買い求めました。確かな値段はもう覚えていませんが、往復でも10万円はしなかったと思います。最初の2泊をカイロのホテルに予約しました。

3. カイロ 考古学博物館と街歩き

カイロに着いた翌朝、まずホテルの旅行社で安い国内ツアーに申し込みました。ルクソール2泊、アスワン1泊、アブ・シンベル経由でカイロに戻る3泊4日の航空機、ホテル、食事、現地ガイドすべて込みで6万円程のツアーでした。

その足で早速カイロ考古学博物館へ行きました。フランスの学生証を見せると割引料金で入場できました。一階には、時代、王朝別に多くの彫刻やレリーフ、神々の座像、立像、動物の彫刻など、もしどれかひとつでも日本に持ってきたら大行列必至というようなお宝がゴロゴロと床に転がっていました。外国人観光客がちらほらいる程度でした。ガイドブックには、各部屋の詳細な地図と主な展示物が展示ナンバーと共に記されていました。

二階は、あのツタンカーメン王の秘宝を始め、見ている私まで全身が金色に染まってしまうほどピカピカの黄金の棺、黄金の厨子、黄金のマスクなどが並んでいました。私の他には誰もいませんでした。まさかツタンカーメンの黄金のマスクと一対一で対峙できるとは想像もできない幸運でした。

◇ 

ひと月くらい博物館の中で暮らしたいと思うほど後ろ髪を引かれる思いでしたが、街歩きもしてみたいと表へ出てみると、大通りの両側に水パイプを咥えた人々が何をするということもなく、ぼんやりとこちらを見ていました。男性ばかりで女性の姿はありませんでした。アジア人の女がTシャツにジーンズでひとりで歩いているというのはよほど珍しいのか、見渡す限りすべての人の視線が私に注がれているのを感じました。

あまりにも衆人環視状態で、緊張するよりもかえって安心感に包まれました。その時私は「『発展途上国』とは発展が必然のような言いまわしだけれど、発展などするつもりはないという国だってあるのではないかしら」と思いながら歩いていたことを思い出します。それほど時が止まったような人々が私の方へ見るともなしに視線を送っていました。

その内にふと気づくと、私のあとを子どもが何人かついてきていました。私が振り向くと「やっと気づいた!」という感じで、口々に話しかけてきました。ムハンマド、ムハッド、マハッド、ムハメッドなど競うように自己紹介をしてくれました。おもしろいことに、子どもたちは一人残らずパジャマを着ていました。カイロのみならず当時のエジプトの子ども服はパジャマでした。

私も子どもの頃、チンドン屋さんが来ると嬉しくなってみんなで隣町までついていったことを思い出しました。さしずめ東洋人の私はエジプト人の子どもから見れば珍しい容姿のチンドン屋というところだったのでしょう。

何人かいるムハンマドくんのひとりが私の服の裾を引っ張って、ピタパンと呼ばれる野菜などを挟んだサンドイッチを売るお店へ連れて行ってくれました。そして(多分)「おいしいから是非食べてみて」と言うのです。勧められるがままにみんなが指差すピダパンをひとつ注文してみました。

ところが手持ちの紙幣を出すと、身振りで「そんな高額な紙幣は受け取れない」といわれてしまいました。ピタパンはすでに紙に包まれて私の方に差し出されており、どうしたものかと思っていたら、連れてきてくれたムハンマドくんが、さっと自分のポケットから小銭を出して支払いを済ませました。

貨幣価値もよくわからないので、子どもに高額な紙幣を渡すのもどうかと躊躇していると「いいから、とにかく食べてよ」と子どもたちが口々に言うので、ひと口食べてみました。びっくりするくらいおいしかったので、日本語で「これおいしいねぇ!」というと「そうでしょ、そうでしょ、やったー、よかった」とみんなが手を叩いて飛び上がって喜びました。

子どもたちは、いろんなことを質問してきました。歩きながら私もできるだけ質問に答えていきました。日本語とアラビア語で一体どんな会話が成立したのかと思いますが、飛行機できたことやピラミッドを見に来たことなどを話しました。

子どもの数はどんどん増えて、いつのまにか三十人以上を引き連れて、まるでハーメルンの笛吹き男状態になってしまいました。衆人環視の中の大行進でした。

途中、何度も子どもたちに「もう帰りなさい」といってもきかないので、困り果て悩んだ挙げ句、入場券を支払わないと入れない美術館に入り、表玄関に子どもたちを残し裏口から出て子どもたちをまきました。あんなに親切にしてくれたのに申し訳ない気持ちでいっぱいでした。街歩きをするならベールをかぶるとか、現地で服を調達するとか何か人目を引かない工夫が必要だと痛感しました。

実は、私はあのピダパンのお金はムハンマドくんに支払っていないのです。美術館の入場券のおつりの中からどうして小銭を渡さなかったのかと35年間悔やみ続けていますが、ずっと借りを返すことができずにいます。もはや大行進をした通りの名前も覚えていませんが、2011年1月25日「アラブの春」の民主化デモでカイロのタハリール広場がテレビ画面に映った時、大人になったであろうムハンマドくんもきっとこの群衆の中にいるのだろうと思いながら、ニュース映像を見つめました。

4. ルクソール 神殿とバレエ

その翌日からは、現地の旅行社で申し込んだツアーでした。カイロ空港から国内線に乗ってルクソール空港へ行けば、現地のガイドさんが迎えに来てくれて、そこからツアーが開始することになっていました。

実際に約1時間の飛行でルクソール空港に着くと、私の名前を書いたプレートを持ったガイドさんはいましたが、他には誰もいなくて、ツアー参加者は私ひとりだと言われました。ガイドさんの名前は忘れもしないゴマさんでした。

フランス語で話しかけてみると、英語からフランス語に素早く会話が切り替わりました。現地のガイドさんは、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語など5、6ヶ国語でなんなく普通にガイドをこなしていました。

空港からホテルまでの送迎は馬車でした。今でもルクソールといったら、遺跡よりもなによりもまず最初に思い出すのは、馬車の上で感じたあの湿度のないカラリとした空気と抜けるような青い空です。

同じ馬車に、もうひとり同じホテルに行くというアメリカ人の女の子が乗っていました。私と同じくらいの二十代半ばのように見えました。話しかけたら「ひとり旅なの」”just me.”と言いました。私も ”me, too.”と答えました。

ギザのピラミッドと並ぶエジプト観光のハイライトであるルクソールは、手元のガイドブックには次のように紹介されています。

 ルクソールは、”百門の都”とうたわれた古代の大都市テーベが繁栄したところである。ルクソールという地名は、アラビア語で城を意味するカスルの複数形アル・クスールに由来している。
 新王国時代に繁栄の極に達した古代テーベの町は、ナイル川の東岸、現在のルクソール市街とカルナックのあいだ約3キロを占めていた。そして、例を見ないほどの巨大建築であるルクソール神殿、カルナックの神殿群や、その両者を結んでいたスフィンクス参道の跡、さらにルクソールの周辺にはメダムード、アルマントの神殿の跡をのこしている。新王国時代、トトメス3世のときエジプトは最大の版図をもった。その栄華をきわめた時代の遺跡がここに残っているのだ。
 ルクソール市街の対岸、現在のクルナ村は、テーベの人々の墓地として利用されてきたネクロポリス(死者の都)である。エジプトでもっとも大きな部類に属するいくつかの葬祭殿や、有名なツタンカーメン王墓に代表される王家の谷、さらに貴族や王妃などの山間に掘られた地下墳墓といった遺跡が数多く残っている。
(後略)
『エジプト』ブルーガイド海外版第4版 吉村作治・近藤二郎執筆 実業之日本社(1984)p.167−8より (太字・リンクは引用者)

ルクソールは圧倒的でした。ルクソール神殿カルナック神殿群もその巨大さといい、造形美といい、これまで経験したことのない「特別な時空」に放り込まれたようになりました。宗教というより宇宙観、死生観と呼んだ方がいいのかもしれませんが、文明とは宗教に基づき成り立つものであって、あらゆる社会の根底には宗教があるように感じました。

ガイドのゴマさんと2人で遺跡を巡りました。私の語学力ではエジプトの歴史や遺跡や彫刻などの説明を外国語で理解することはできませんでしたから、その場に連れて行ってもらったら、ひとつひとつガイドブックの説明書きを読みました。これほど素晴らしいガイドブックは他にはないだろうと思うほど、詳細な地図と番号で、かゆいところに手が届くような編集でした。

ツアー客が私ひとりだけだったこともあって、私のペースで回ることができ、ナイル川東岸の古代テーベの遺跡や、ナイル川西岸の王家の谷デル・エル・バハリの、あらかじめ予習して行ってみたいと思っていた場所、見たいと思った物はほぼすべて見ることができました。ゴマさんの解説も大変参考になりました。

予想を遥かに超えて素晴らしかったのは、王家の谷のラムセス6世王墓の壁画で、広間は柱も壁も美しいヒエログリフと神々の絵で覆われていました。さらに奥の玄室の天井には、背中合わせに描かれた巨大な女神ヌゥトが昼の世界と夜の世界を表現しているのですが、写真や映像では伝わらない色彩の美しさ、構図の素晴らしさに心を奪われました。

ルクソール最終日、出発までに少し時間があったので、ひとりでふらりとルクソール神殿を再訪したら、「あれ? 昨日も来たよね」とあちこちから声をかけられたのには驚きました。

それにしても、私にとってなんといってもルクソールでの忘れられない思い出は到着した晩に観た遺跡でのバレエでした。

ホテルに行くまでの道すがら、遺跡でバレエを踊っているポスターを見かけました。まさに今夜、ルクソール神殿でバレエ公演が上演されるというお知らせでした。私は子どもの頃からバレエが大好きで、神殿でのバレエをどうしても観たいと思いガイドのゴマさんにお願いすると、「OK、OK、任せといて」と二つ返事で請負ってくれ、日没後馬車で迎えに来てくれました。まるで舞踏会へ行くシンデレラになったような気分でした。

神殿の巨大な石柱を背景に舞台と観客席をしつらえ、闇の中から一筋の光と共に薄桃色のベールと衣装を纏ったバレリーナたちが浮かび上がってきました。独特の振付でまるで遺跡の壁画から抜け出してきたように舞うのでした。光の加減で石柱が立体的に見え、その中で古代から時を越えてやってきたようなバレリーナたちが織りなす群舞は大変美しいものでした。夢のような一夜でした。

5. アスワンとナイルの水

3日目はアスワンへ向かいました。ルクソールからアスワンまで飛行機で40分、アスワン空港では新しいガイドさんが、やはり私の名前を書いたプレートを持って待っていてくれました。彼はファイサルさんと言い、ゴマさんに比べて大分色が黒く、自分はヌビア人だと誇らし気に自己紹介しました。彼にもフランス語で話しかけると、即座に会話がフランス語になりました。

アスワンには、ナイル川の氾濫防止と灌漑用水の確保を目的に1902年に完成したアスワン・ダム(旧ダム)と、さらに近代化を図ろうと工業化のための大量の電力供給を目的とした1970年に完成したアスワン・ハイ・ダム並びにダム建設によってできた人造湖ナセル湖があることで有名です。

忘れられない思い出は、ナイル川の川中にあるエレファンティネ島へ観光に向かう途中の出来事です。

粗末な手漕ぎボートにガイドのファイサルさんと、船頭さんと三人で乗り込み、島に向かって漕ぎ出ししばらくした頃、気温が上がり日射しがいよいよ強くなり「ああ、暑い」となった時、ファイサルさんがナイル川の水を手に掬って一口飲みました。そして「はぁ、なんてうまいんだ」という表情をすると、私にも「君も飲みなよ」と促し、さらにもう一口、もう二口と飲みました。それを見ていた船頭さんも魯から手を離して、キラキラ光る水面に手を差し込んで水を掬って口に運び「なんてうまいんだろう」という表情をしました。

しかし、ガイドブックには次のように書いてありました。

「ナイルの水を飲んだものは必ずナイルに戻る」という言い伝えがあるが、ナイルの水は飲まないこと。エジプト旅行では特に生水に注意。暑さきびしいエジプトで腹をこわすことは、即、体力を消耗すること。注意しすぎるくらいでよい。288ページでふれたミネラル・ウォーターを飲むこと。レストランにも置いてある。
『エジプト』ブルーガイド海外版第4版 吉村作治・近藤二郎執筆 実業之日本社(1984)p.291より 太字は引用者

私は出発前からガイドブックを熟読し、こちらに来てからもガイドブックのアドバイスの的確さには、ある種の感銘を受けていましたから「残念だけど私は飲まない」と答えました。なんだかその時、私たちの間の信頼関係にヒビが入ったように感じました。異国で体調を崩しては大変なので、自分の判断が間違っているとは思いませんでしたが、ガイドさんと私の関係性が少し、でも確実に変わってしまったように感じました。それにしても、無菌室のような日本で暮らしていたら、自ら行動半径を狭めるのではないかとその時強く思いました。

1986年頃、日本でミネラルウォーターを買って飲んでいる人など皆無といって良い状態でしたから、ガイドブックの288ページに書かれていた説明文は次のようなものでした。時代を感じます。

 遺跡には、スナック程度の食事がとれるレストハウスが普通にある。またビン詰め、キャップ付きのミネラル・ウォーターを食料品店やスーパー・マーケット、薬局で求めて持っていくと、喉がかわいても心配ない。エビアンというのが有名銘柄。
『エジプト』ブルーガイド海外版第4版 吉村作治・近藤二郎執筆 実業之日本社(1984)p.288より 太字は引用者

夜、ツアーに含まれている食事をとりにアスワンのホテルの豪華なダイニングルームに行くと、ひとりの50代くらいの女性に英語で声をかけられました。カナダ人でやはり一人旅でした。東洋人の私がひとりで入り口に立っているのを見て、「良かったらお食事をご一緒しませんか」と誘ってくださったのです。その頃の私の英語はひどいものでしたが、彼女がカナダ人だったことが幸いして、お互いなんとかフランス語で会話ができました。

頭にターバンを巻き、金モールのついた煌びやかな紺色の制服に身を包んだヌビア人の給仕係が、見渡す限り白人ばかりの観光客の間を縫いながら、銀の丸いドームカバーのついたお料理を次々に運ぶ姿はそれは壮観で、あたかもルキノ・ヴィスコンティの映画に入り込んだような気分でした。

6. アブ・シンベル神殿とユネスコ

アスワンからさらに南へ向かい、40分ほどの飛行で北回帰線を超えた頃、飛行機の窓から眼下の黄土色の砂の中に真っ青なナイル川が目に飛び込んできたのは、私にとって生涯忘れることのできない光景です。

飛行機を降りてしばらく他の観光客と共に歩いていくと、そこには巨大なアブ・シンベルの大小の岩窟神殿が聳え立っていました。

この圧倒的に巨大な神殿は、その姿を目にするだけで畏敬の念を抱くほどですが、アスワン・ハイ・ダム建設によってダムの底に沈むことになったのを、ユネスコによる国際的な救済キャンペーンによって移築されたと聞くと、尚一層驚かされます。

 今から約3200年前、来るだけでも大変だったこのヌビアの奥地に、かくも巨大な記念物を造らせたラムセス2世の権威の大きさに驚かされてしまう。
 現在、神殿は、昔の神殿から西へ1100メートル、北へ64メートルのところに移築されている。
 ユネスコのヌビア遺跡救済キャンペーンは、この神殿を有名にした。アブ・シンベル神殿は救済キャンペーンのシンボルであり、60年以上にわたって浮沈を繰りかえしていたフィラエ島を救う原動力となった。
 ナセル湖によるアブ・シンベル神殿の水没は、世界中を驚愕させ、史上初の国際協力による救済がおこなわれることとなった。世界中からさまざまな救済案が出された、現場保存のフランス案と、水圧ジャッキを使い神殿を押しあげるというイタリア案が有力視されていたが、神殿を切断し移転するというスウェーデン案の採用が決定した。
 この巨大な計画のために、スウェーデンを中心に西ドイツ、エジプト、フランス、イタリアなどの技師、労働者が集められ、1963年11月、移転先に地ならしから工事ははじめられた。そして、近代科学を駆使し、高度な技術と最新の注意をはらって、このもろい砂岩層に作られた神殿は、1036個のブロックに切断された。1968年9月22日、竣工式がおこなわれ、1972年に、切断の跡をうめる最終的な仕上げ工事が完了した。
『エジプト』ブルーガイド海外版第4版 吉村作治・近藤二郎執筆 実業之日本社(1984)p.258-9より 太字は引用者

この神殿の最奥部にある「至聖所」の奥壁には、岩を掘った三神像と神格したラムセス2世の座像があるのですが、これが年に2回、2月22日と10月22日に、夜明け共に太陽光が一直線に入り込み、それらの像に光が当たるようになっていました。移動したあとも、元の日付けと2日ずれましたが、同じように日が射すようになっているそうです。古代人の天文学、数学の知識の深さを表すエピソードですが、なんとも壮大な話です。

7. キザのピラミッドとアレキサンドリア そしてカイロへ

エジプト観光のハイライトをひとつだけと言われれば、多くの人々がギザの三大ピラミッドを挙げるでしょう。私が行った1986年には既にピラミッドによじ登ることは禁止されていました。クフ王のピラミッドの角度は約52度もあり、転落し亡くなる人が後を立たないという理由でした。

そういうわけで私が行った頃にはピラミッドの頂上でお茶のお点前をしている人はいませんでしたが、玄室といわれるピラミッドの中心部の空間まで、工事現場の足場のようなところを通って歩いて行くことはできました。それまで感じたことはなかったのですが、ピラミッドの中を屈んだ姿勢のまま歩き続けるうちに、自分は軽い閉所恐怖症ではないかと感じました。今もピラミッド内の空間を思い出すと、動悸が始まるような気がします。

ギザで忘れられないのは、ラクダ引きのおじさんに「奥さんは何人いるのか」と尋ねたら、おじさんは迷惑そうな表情で「3人だが、どうして外国人はみんな揃いも揃って奥さんの数しか聞かないんだ」と答えたことです。しゃがんだラクダに跨り、ラクダが立ち上がる際に後ろ脚で立ったら前につんのめりそうになり、前脚で立ったらうしろにひっくり返りそうになりました。降りる時も同じでした。

アレキサンドリアは、これまで見てきた古代遺跡の街というより、ローマ帝国の遺跡の街で、随分趣きがちがいました。ここでは、地中海を南から眺めるという経験をしました。私の行った日の天候によるものなのか、それとも普段からそうなのかはわかりませんが、あの日、エメラルドグリーンの海面に白い波頭を立てて、次々に大波が押し寄せてくる地中海の姿はあまりにも雄大で、これまで見てきた巨大建造物にも負けないほど感動しました。

カイロに戻り、乗り合いタクシーで一緒になったエジプト航空の客席乗務員が降り立ったスラム街、ニンジンを山積みにした荷車のうえに乗っかってロバにひかせているパジャマ姿の少年、モスクを彩るイスラム美術、エジプトは古代遺跡以外にも何年経っても忘れることのできない印象的な場面の連続でした。背景にはモスクから流れるアザーンの音色が聞こえていました。

歳をとるに従って、日常の大切さを感じると共に、旅先での非日常の時間も同じように大切だと思うようになりました。先週や先月の出来事は覚えていなくても、数千年の時間を越えて古代人と対話したあの密度の濃い時間は、何十年経っても決して忘れることのできない貴重なものとなりました。

8. エジプトを去って

10泊11日間の夢のような旅を終え、フランスに戻ったのがちょうど35年前の今頃、3月の終わりでした。そのわずか半月後の1986年4月15日に、アメリカ空軍及び海軍は、エジプトの隣国のカダフィ大佐率いるリビアに対し爆撃を行い一気に緊張が高まりました。私が子どもたちと歩いたカイロの街中にも戦車や装甲車が数多く出動しました。平和が一瞬で崩れる瞬間を目の当たりにしたようでした。

1997年11月17日、ルクソールにおいて、イスラム原理主義過激派の「イスラム集団」が、日本人10名を含む外国人観光客62人を殺害するという無差別殺傷テロ事件を起こしました。こんな事件報道で、デル・エル・バハリのハトシェプスト女王葬祭殿が日本の新聞の一面を飾ることになろうとは、私は言葉を失いました。

事件から何年か経って私の友人がエジプト旅行に出掛けた時には、外国人旅行客は、グループごとに機関銃を携えた兵士によって守られながら集団で移動したと聞きました。

その後もテロは度々報じられ、2019年5月19日にはピラミッド近くで外国人観光客のバスを狙った爆破事件が起きました。1986年3月には、一緒に食事をしたカナダ人のマダムや馬車で乗り合わせたアメリカ人の女の子のように、私も含めて女性が気軽に出かけられる観光地だったエジプトも随分変わってしまったと思わざるを得ません。まして今日のように感染症によって世界的に人々の移動が制限されるとは思いもよりませんでした。

もしかしたらあの日、ナイルの水を飲んでおけば再びナイルに戻れたかもしれないと思うのですが、残念ながら時を戻すことはできません。


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