107.モロッコ旅行 1/4

ノルマンディに向かう列車のコンパートメントは8人掛けで、パリを出た時には満席でしたが、ひとり降り、ふたり降りしていくうちに、遂に窓際の男性と私の二人だけになったことがありました。1992年の冬のことでした。

なんとなくお互いに視線を交わし目礼をしたところで、その男性にどこから来たのかと尋ねられたので日本からだと答えました。すると彼は自分はモロッコからだ。でももう長いことノルマンディで暮らしていると言いました。

私がモロッコには数年前に旅行で行ったことがあると言うと、身を乗り出してどこの町に行ったのかと質問してきました。

カサブランカ、マラケシュ、フェズと答え、人々が親切だったこと、食べ物がおいしかったこと、忘れられない数々の思い出があると伝えると、彼は嬉しそうに笑顔で大きくうなずきました。

カサブランカへ

1987年9月、34年前のちょうど今頃、私はモロッコへひとり出かけました。28歳になったばかりでした。

一年間フランスで暮らしてみたいと、1985年から86年にかけてフランスの地方都市に滞在した後、帰国して東京で再就職活動をしましたが、ほぼ丸一年間、アルバイトのような職を転々としました。自分のやりたい仕事はそう簡単には見つかりませんでした。

今となれば自分を見つめ直す良い時間だったと言えますが、あの頃は38通の不採用通知を前に、自信を失い、これからどうやって生きていこうかと途方に暮れていました。フランス系企業だけでなく、もう少し視野を広げて履歴書を送っていたそんなある日、ようやく希望していた外資系企業に採用が決まりました。昔から憧れていた会社でした。本当に嬉しいことでした。

しかしながら、フランス語を使って仕事をしたいという私の切なる願いは叶わず、その会社は英語で業務が行われていました。当時の私の英語力は箸にも棒にもかからないレベルでしたが、奇跡的に英語での面接試験にも合格しました。

フランス語を使っての仕事探しを諦めるというのは、当時の私にとっては無念の一言でしたが、38通の不採用通知という現実を前に、10月から新しい会社で働くことに決めました。でもその前に、もう一度フランスへ行って、子どもの頃から憧れ続けていたフランスの空気を胸一杯に吸い込んでみたいと思ったのです。

◇ ◇ ◇

パリに着いて早速街を歩いていると、ふと旅行会社のポスターが目に飛び込んできました。「モロッコ往復航空券大特価」と書かれていました。

モロッコ…!? 北アフリカの西にある最果ての国、モロッコ。

何もかもをリセットして、新しい人生の門出にふさわしい旅先だと感じました。そこで旅行社に飛び込んで、翌日のカサブランカ行きの航空券を購入しました。本当に国内旅行よりも安いと感じました。その足でモロッコ観光局に行って地図やパンフレットをもらってきました。自分でも思いがけない行動でした。

モロッコはフランスの植民地だったためフランス語が第二言語として使われており、フランス人にとっては夏休みの家族旅行などで気軽に出掛けられる治安の良い地中海リゾートとして知られていました。

機内の留学生

翌日の昼下がり、スーツケースはパリのホテルにそのまま預けて、ボストンバッグに小さなリュックでオルリー空港へ向かいました。オルリー空港はこじんまりとした空港でしたが、どういうわけか人が溢れていました。列もなく人々が出国手続きの窓口に殺到していました。私も一緒になってパスポートを振ってシルブップレと叫び、ようやく搭乗口へたどり着きました。

そこで我にかえり、そうだ今夜のホテルを予約しておこうと思い、観光局でもらったホテルリストを頼りに、搭乗口の公衆電話から予約の電話を入れました。カサブランカがどんなところかわからないので、とりあえずリストの一番上にあった四つ星デラックスの高級ホテルを一泊予約しました。それでも日本円で一万円はしませんでした。

エールフランスの搭乗券には座席番号はなく、国内線扱いで好きな席に座るように言われました。機内はガランとしていて、空港のあの大混雑の理由はますます不明でした。座席の一割ほどしか乗客はいないようで、なるほどこれなら往復チケットも大安売りだと思いました。そこで、窓際に席を取って、観光局からもらったパンフレットを見てのんびり旅行の計画でも立てることにしました。

すると、ほとんどの座席が空席だというのに、私の隣に一人のモロッコ人の青年がやってきて、ちゃっかり座り込みました。私は内心戸惑いましたが彼は意気揚々と自己紹介を始めました。正直にいえば私にとっては迷惑でしたが、うまくかわすことが出来ずそのまま話をすることになってしまいました。

彼は自分は怪しいものではないといい、パリの誰もが知っている有名大学校の顔写真入りの学生証を見せてくれました。彼は留学中の一時帰国なのだと言いました。日本が戦後、驚異の経済成長を遂げ、今や円高を強いたプラザ合意にもかかわらず米国や欧州諸国と貿易摩擦を引き起こしていることなどを語りました。

未だにフジヤマ・ゲイシャ・ハラキリというイメージを持っている外国人も多い中、彼はさすがに有名校に通う学生だからなのか、日本に関する知識も最新版で驚きました。フランスでは、日本は公害がひどいと聞くけれど今もガスマスクをつけて通勤通学をしているの?という質問を何人かの人から受けていました。欧州の教科書には、日本の大気汚染が写真入りで紹介されていたようでした。

彼はウォークマンを片手に、日本のテクノロジーを絶賛しました。これからのモロッコの国作りに日本はとても参考になると言い、日本人とこうして知り合えてとても嬉しい、これからも末永く交際したい、友達や家族にも紹介したいので、良かったらうちに泊まりに来ないかとグイグイと踏み込んできました。

私はそのような好意はありがたいけれど、今夜のホテルは既に予約してあるのでお宅にはお伺いしませんとはっきりお断りしました。彼は尚も私を説得しにかかりましたが、私は彼のハラール料理の機内食を指差して、私があなたの国の食文化を尊重しているように、初対面の人の家には泊まりにいかないという私の国の文化も尊重して欲しいといいました。

繰り返し誘いをかける彼に対し、今後もいい関係を続けたいと思うならもうこれ以上この会話を続けるのは逆効果ですと毅然と告げました。それでも交渉とはこうやってするのかと感心させられるほど、彼は頭の回転が早く、次々にアイデアを繰り出してくるので思わず笑ってしまいそうになりました。

途中、ラバトに到着すると、ただでさえ少ない乗客の半数以上が降りてしまいました。ひと気のなくなった薄暗い機内で、隣の席の青年から相変わらず家に来ないかと誘われ続け、私もいい加減うんざりしてきました。かなり強い口調で断ると、さすがに彼もこれ以上は私が本気で腹を立てると気づいて何も言わなくなりました。空港でホテルに予約を入れておいて良かったと心の底から思いました。

しかし私は心の中では、彼は何か下心があってというのではなく、本心から私を友人や家族に見せびらかしたいだけなのだろうと思っていました。アーモンド型の目をした、真っ直ぐな黒髪の珍しい容姿をした東洋人の女を連れて行って、友だちなんだとちょっと自慢したいのではないかと感じていました。彼からは危険な感じは受けませんでした。

それでも飛行機から降りる際、あなたの家には行きませんからここでお別れしましょうときっぱりと告げて、彼は自国民用のゲートへ、私は外国人用のゲートへと進みました。

空港からホテルへ

カサブランカの空港に着いたのは、真夜中でした。今調べてみると、今日のパリ-カサブランカ間はわずか2時間程度のフライトですが、あの頃は夕方の飛行機というのは、途中ラバトを経由していくと6、7時間はかかり、真夜中に到着するのでした。私は行き当たりばったりの旅だったので、そんなことも知らずにやってきて迂闊だったと後悔しました。

というのは、真夜中の空港には東洋人はもちろん、ひとりの白人の姿もなく、現地のモロッコ人か、原色の鮮やかな布をまとった黒光りする肌の中央アフリカの人々ばかりがいるのでした。入国検査の列に並びながら、肌の色など関係ない、白人がいたからといって何がどうなるものではないのだと自分に言い聞かせながらも、心細い思いが喉の奥から突き上げてくるようでした。

たった15人くらいの外国人の列をさばくのに小半時間かかり、ようやく入国窓口を通り抜けると、そこには例の青年がにこやかに待ち構えていました。懲りずに僕の家へ一緒に行こうと言います。絶望的な気分と同時に、こんなところで知った顔に会えて嬉しい気持ちとがない混ぜになりましたが、もちろん、私は彼の申し出を丁寧に断りました。

つきまとう彼を振り切るように銀行の窓口で現地通貨に両替をしつつ聞いてみると、もう街中へ行くリムジンバスはとっくに終わっていて、タクシーしかないということでした。市内までは3、40分、3、4千円だと言うことでした。

夜更けの空港でひとりタクシーに乗るのも躊躇しました。青年はどうせ市内に行くのなら一緒に行こう、その方がお互いに安上がりだと言うのです。それもそうでしたが、真夜中にひとり空港からタクシーに乗るのも怖いし、どちらがマシなのか迷いましたが、イチかバチか彼と一緒にタクシーに乗ることにしました。

タクシー乗り場で、うしろのトランクに荷物を放り入れたあとも、彼とタクシードライバーはしばらく現地語で何やら交渉していました。おそらく深夜料金の値段の交渉だったと思います。彼の様子から、深夜料金とはいえ高過ぎると言っているように感じました。かなり時間がかかりましたが、ようやく交渉はまとまったようでした。約5千円ということでした。銀行の窓口で聞いた値段からそれほどかけ離れてはいませんでした。

乗車する際に、私はタクシードライバーに観光局でもらったパンフレットを見せて一番上のこのホテルに行って欲しい、この青年と私とは友人でもなんでもないので、とにかくこのホテルに連れて行ってくれと頼みました。すると私が話しているそばから、かぶせるように青年が現地語で何かを言うのでした。

油断も隙もないと思いつつ、ホテルの名前を再度念押しました。こうして、漆黒の闇の中、タクシーは私たち二人を乗せて走り出しました。2つのヘッドライトだけが砂漠の中の道を照らしていました。月も星もない夜でした。相対的な目印はないものの、肌感覚では時速120km位ですっ飛ばしているようでした。真っ暗で何も見えない砂漠の中、隣ではモロッコ人の青年が低い声でうちに来ないかと囁いていました。

しばらく走ったところで、ヘッドライトが左はカサブランカ、右はラバトという標識を照らし出しました。すると、なんとタクシーは右のラバト方面へ進もうとするではありませんか。

「停めて〜!」 私は大声を上げ、タクシーは急停車しました。

どういうことなの? 私はカサブランカのこのホテルに行くようにお願いしましたよねと言うと、運転手さんはこちらのムッシューがまず彼の家に先に行ってくれということなのでと言います。今度は青年に向かって、あなた一体全体どういうつもり? 私はあなたの家には決していかないと繰り返し言っているでしょう? 彼が言い訳しようとすると、今度は運転手さんが現地の言葉で彼をなじり始めました。

月も星もない真っ暗な砂漠の中で車を停めて三人で口論することになりました。彼らふたりは現地語で罵りあっているのですが、何を言っているのか見事に理解することができました。結局、冷静さをいち早く取り戻した運転手さんが、ここは彼の家に行って彼を降ろし、その後私のホテルに行くのが距離的にも時間的にも一番良いと提案しました。タクシードライバーがそう言うのならばと、私も彼も同意しました。

真っ暗闇の砂漠の中、タクシーは再びスピードを上げました。青年はより一層小声になって私を誘い続けました。

青年の家の前に着いたのは、午前1時をかなりまわっていました。タクシーから降りた青年は、再び運転手さんと口論になりました。聞けば、5千円という料金はそれぞれ一人分だと主張するタクシードライバーと、深夜料金を入れても5千円というのはただでさえ割高な上に、それを二人からそれぞれ受け取ろうとはアコギな商売にも程があると言うものでした。

まもなく草木も眠る丑三つ時だというのに、二人は通りで大声で罵りあっており、私は周りの住民が起きてしまうのではないかとヒヤヒヤしていました。すると青年はうしろのトランクから私のボストンバッグまで取り出して、こんなガメツイ運転手の車に乗っていてはダメだ、ここで降りてうちに泊まって行けと言い出しました。

この期に及んで、家に誘う彼には笑いがこみ上げてきましたが、私は日本人は初めて会った人に家には泊まらないのですと言って、表へ出てボストンバッグを奪い返し、再び車内に乗り込みタクシードライバーに早く出してくださいと頼みました。タクシーが出発したあとも、青年は道端で何やら叫んでいました。

運転手さんも彼のことを悪し様に罵っていました。自分は20年以上もタクシードライバーとして空港で働いているけれど、彼のような失礼なヤツには出遇ったことがないと嘆いていました。ただ銀行の両替窓口の情報から言って、どちらの言い分が正しいのか私には正直よくわかりませんでした。

ホテルにチェックインをして部屋に入った時、たった半日のことなのに、精も根も疲れ果てたという状態でした。冷蔵庫を開けるとミネラルウォーターが入っていたので、キャップを強く回して封を開け、ひとくち口に含んだ途端、なんだかイヤな味が口一杯に広がりました。

気を取り直してバスタブに湯をはってゆっくりお湯につかろうと思ったら、足元が滑って転びそうになり、思わずシャワーカーテンを掴んだら、天井からカーテンレールごと外れてしまって轟音が鳴り響き、私は途方に暮れました。これが私のモロッコの第一夜でした。

モロッコ旅行 2/4に続く


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