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短編小説「この世に猫がいて、よかった」

猫好きの人というのは、時に狂気的なまでに猫を愛している。
それは、そうでない者にとっては薄らと怖さを感じる時もある。まるで彼らが見えない爆弾を抱えられているかのように感じるのだ。


彼女に子どもがないことは、何とはなしに気付いていた。だけど、夫と猫たちの待つ小さな我が家に戻り、いつも怯えているような、警戒しているような、あの姿は解けるのだろうと思っていた。

彼女が結婚していると知ったのは、本人に直接話を聞いたわけではない。単純に、左手の薬指に鈍く光る、指輪の存在でそう確信していた。ただ、同時に彼女の右手人差し指にも似たような色が光っていることに、いつも少し違和感を感じていた。

整った顔立ちだが、特別に目を引く容姿をしているわけでも、目立つ言動があるわけでもない。むしろ静かすぎるくらいだ。だけどなんとなく、その怯えた小動物のような縮こまった肢体と、その陰に潜む固い意志のようなものを感じ、なぜだか彼女の存在がいつも気になっていた。



彼女の夫は、昨年亡くなったのだ、とある日人づてに聞いた。
途端に、すべてのことに合点がいった。

右手の指輪。
ぎこちない怯えた体。
合わない目線。
遠くの誰かを見つめているような黒い瞳。

まるで、それは怯えた猫のような。



その翌日、昼から出社した彼女の立ち上げたばかりのパソコンの、デスクトップに名前入りの猫の絵が3匹並んでいた。いつもは仕事のデータで埋め尽くされていて見えない、そのまっさらな画面を初めて見た。

あれは、彼女の猫たちなのだろうか。彼女の夫が描いたのだろうか。
夫が優しく彼女を抱きしめ、撫でたように、彼女もまたそれを想いながら、あの猫たちに触れているのだろうか。


ーこの世に猫がいて、よかった。

生まれて初めて、心からそう思った。







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