見出し画像

わたしの魔女が死んだ

先月末、祖母が永眠しました。
死因は老衰。大正生まれ、102歳でした。


祖母は1年半ほど前に転倒による入院から、自宅介護はもう難しいと判断され、介護施設に入っていました。まだ転職先に引っ越す前で、亡くなる日まで連日会いにいけ、息を引き取る1時間前にも、最後に顔も見られました。
衰弱していく様子を見届けるのは、突然死とは別の苦しみがありました。
しかし、正直に申しますと、亡くなった後のかなしみは、突然死程ではありませんでした。

まだわたしが大学生だった頃、祖父が突然死しました。
1ヶ月弱前に、成人式の振袖姿を見せに行ったのが最後。わたしはしばらく立ち直れず、文字通り泣いて暮らしていました。
共働きで忙しかった両親に代わり、この母方の祖父と、先月亡くなった父方の祖母に半分育てられたようなものだ、とわたしは思っています。

だからこそ、祖父の時は泣き暮らしたくせに、祖母の時は案外平気だった、なんて、わたしはなんて奴なのだ、と最初思ったのです。
けれど、思い返せば2018年ごろから「いつ祖母とお別れしてもおかしくない」と思っていましたし、またその頃から祖母の心身はどんどん衰え、晩年はほぼ寝たきりで認知機能も衰えていました。衰えを見るのは悲しく、また苦しいものでしたが、その中で心の準備は整っていたのでしょうね。

そして、わたし自身ヨガを始めたことも多少関係しているのかなと思いました。特に今回祖母は老衰での死。魂が肉体より解き放たれて-祖母が体の苦しみから解き放たれて-楽になれたのではないか、と思うとかなしさも半減します。特に、よく「長生きも大概よ」と言っていたので。
宗教に固執はありませんが、子どもの頃経を唱えると祖父母がこれはすごいと褒めてくれ、得意になってよくやって見せていたのですが、仏事の間の読経はそんな祖母との時間を思い出し、慰めになりました。



祖母が亡くなった日の夜、ふと、口から出た独り言。

「今日、わたしの魔女が死んだ」

なんだかゾッと、そして、ハッとしました。
梨木香歩著「西の魔女が死んだ」のおばあちゃんは、わたしの祖母とは似ても似つかない人。それでも中学生の頃あの本を読んだわたしは、なんとはなしに自分の祖母を「おばあちゃん」のように思うことが時折ありました。
あの物語のように、祖母の魂もどこかで見守ってくれているかも。それに、祖母はわたしの一部となって永遠に生き続けるのです。


祖父が亡くなった時、眠れぬ夜に積読の吉本ばななさんの本を読み、そのあまりにも鮮烈で生き生きとした生と死の描かれ方に、「それでも、わたしは生き続けるのだ」と強く感じたことを、今も覚えています。
なので今回、引っ越し先に、祖母に思いを馳せ、また祖母を偲ぶ思い出の本を3冊持ってきました。

島崎藤村著「初恋」、梨木香歩著「西の魔女が死んだ」「エンジェル エンジェル エンジェル」

梨木香歩の二作は個人的に祖母を思い出す本。確か島崎藤村の若菜集を習った話をした明くる日、祖母が本屋さんで買ってきてくれた詩集です。

本に浸る時間、学校から帰ってきて、祖母の座敷でおやつを食べながらおしゃべりをしていた、かなしいくらい幸福なひとときを思い出します。
慌ただしい毎日、さもすれば祖母のことは頭の片隅から消えてしまいそうだけれど、こうやって祖母と過ごすひとときをまだ少し持てています。
本があって、よかった。



蛇足ですが、家族葬とお伝えしてたにも関わらず、近所の方がたくさん参列並びにお悔やみに来てくださり、後日道端でお声がけくださったりしました。地方のつながりというのも悪くないものですね。






本や映画、美術館などの文化教育、またはサスティナブルな物作りをしているところで使わせていただきます。