好きなものに囲まれる大作戦
好きなものに囲まれて暮らすことは、わたしの密かな夢である。
統一感があって、大きなぬいぐるみなんか置いて。
夢である、というのはつまり、今、現実は、そうではないということ。いつかそうしたい、と思いながら行動に移していない。
ひょんなところから読んだこの記事に書かれていることは、まさに、目から鱗だった。
昨年の年末あたりに、「自分が好きなもののみで自分の周りを構成する」という考え方を知った。
どういうことかというと、例えば家にある服、食器、雑貨とかいろいろ。
なんとなく買って、なんとなく捨てずにいるものって多い。
そのなんとなくで周りを埋めるのではなく、全部好きなものだけで満たす(そしてそれ以外は手放す)という考え方。
これができれば自己肯定感が上がるということだったのだけど、私はこの考え方が目から鱗だった。
そして、すぐにやりたいなと思っていた。
まさにわたしの夢。憧れ。
だけど、それが自己肯定感に結びつくということは、これまで考えもしなかった。
これまで、「好きなものに囲まれて生きたい」とも思ったし、「自己肯定感を高めたい、自信を持ちたい」と思ったことも何度もあった。
ただ、それを結びつけて考えていなかった。
よくよく考えてみると、わたしは「好きなものについて話す自分のことが好きだ」という確信だけはあった。
目を輝かせて、わくわくして、なんだか自分らしくて。というか、これが自分であってほしい、というような理想の自分。
それでも、好きなものに囲まれずに生活しているのはなぜだろう?とちょっと考えてみた。
身の丈に合う生活をする癖。
誰かがくれたものを捨てられない。
前者は、悪いことではない。
両親からの仕送りで生活していた学生時代、何かを買うときに「100%理想通り」のものを買うことはほとんどなかった。
お金と相談しながら、ちょっと妥協をして何かを選ぶ。それはむしろ、良いことだと思って続けていた。
でも、今は自分でお金を稼ぎ、自分のために生きたっていいはずだ。
後者はどう?
◯歳の誕生日プレゼントで。
△※のお祝いに。
そうやって増えて、捨てられないものがたくさんある。もちろん急に考えを180度変えてその想いを無下にすることはできないけど、もう十分に大切にしたものは踏ん切りをつけてもいいのかもしれない。
わたしの部屋には、好きでも嫌いでもないものがたくさんある。どっちでもいいもの。
周りの人に選択を迫られたとき、「どっちでもいいよ」と自信なさげに答える自分が思い浮かんだ。
つい最近、服を手に取って、買おうかどうしようか迷ったことがあった。
これ、似合わないかなあ。
でもこれが、好きなんだよなあ。
迷いに迷って、買ってみることにした。
その服を着ると、褒めてもらえた。そうすると、「好き」を選んだ自分が認められたみたいな気分だった。
「好き」を突き詰める。
それ以外は捨ててみる。
誰かを思い浮かべることをやめる。
自分がいちばん自分を好きでいたい。
「好き」は自分だけのものだ。