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きらい、と口に出してみる


わたしは「好き」を大事にして生きている。

そうし始めたのは一体いつ頃からだったかハッキリとは覚えていないけれど、noteの記事をさかのぼっても、いたるところに「好き」がある。



と同時に、マイナスなことをなるべく発したくない、という気持ちがある。

誰かを傷つけたり気持ちが沈んだり、そういうことの引き金になってしまうのが怖いからだ。

無意識のうちに、それはいけないことだ、と自分の中で制御することが習慣になっていた。


「嫌い」と口にすることは、それを「好き」だという人が嫌な気持ちにさせることだと思っていた。







この記事を読んでハッとした。


なんだか好きになっちゃった、がほんとうだろう。自分の「好き」を自覚し、言語化することは、相当にむずかしい作業なのである。
好きな文章について「なぜ自分はこれが好きなんだろう?」と考えたところで、「だって、いいじゃん!」以上に的確な答えにたどり着くことはむずかしい。でも、嫌いな文章だったら、もう少し冷静に「嫌いな理由」を言語化することはできるのだ。



「嫌い」は、乱暴で封じ込めておかないといけないものだと思っていた。


でも、

自分の"そのまま"を表すものでもあると知った。


やだな、という違和感。
その直感は自分を知ることにつながるかもしれない。




今日はあえて「嫌い」を並べてみる。









自分が正しいと言わんばかりに一方的に主張をする人がきらい。いろいろな正解があるのに、もっと相手の気持ちを考えたらいいのに、と思う。



休日に雨が降っているのはきらい。洗濯を干したり、晴れの日の気持ち良いドライブができないのが残念。



何でも否定から入る人はきらい。もっとちゃんと見てよ、って思っちゃうよ。



煽り運転はきらい。何をそんなに急いでいるの、と思う。



休みの日に、家でじーっとしているのがきらい。外の空気を吸いたくなる。何もなくても家から出たくなる。



キツ〜い言い方、嫌味な言葉はきらい。それ、別の言い方ないの?言わなきゃダメなの?



喧嘩はきらい。家族の喧嘩を近くで見ていると、理由や言い分を理解できても、くるしくなる。



計画性のない自分がきらい。ぜーんぶ後回しにして切羽詰まっちゃうのに、繰り返す。



球技がきらい。特に、自分が失敗しちゃった瞬間。あ〜、迷惑掛けちゃった、って。



愛のないイジりがきらい。それを面白いと思って笑ってるのがきらい。こんなの冗談じゃん、なんてスタンスだとなおさら嫌だ。



音の大きな雷がきらい。「遠くで鳴ってるから大丈夫」なんて言われても全然大丈夫じゃない。








たくさん並べてみてわかったこと。


私の「嫌い」は、人に関わることがほとんど。

つまり、裏を返せば、
私の心は"人"に動かされるってこと。


それに、「嫌い」は、そんなに簡単にするすると思い浮かぶものでもないってこと。

もしかすると、本来は素直でまっすぐな気持ちである「嫌い」を抑え込んでいたせいなのかも。



でも、これからは。

蛍光ペンで教科書に線を引くみたいに。
後から見直せるように付箋を貼るみたいに。

なんかやだな、という違和感が生まれるたびに
そこに隠れている大事なもの探しをしてみよう。

どこかに投げ捨てたり押し込めたりせず、
向かい合ってみよう。