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好きよりも大事な「嫌い」。

20歳の自分に受けさせたい文章講義』という本に、こんなことを書いた。

たとえばあなたが恋人と別れるとき、関係が冷めきってしまったとき、あなたはその人の「嫌いな理由」をいくつでも挙げることができるだろう。考え方から言葉遣い、ふとした表情に服のセンス、さらには食事中の癖まで、たくさんの「ここが嫌い」を挙げられるだろう。

一方、恋に落ちている只中に「ここが好き」を挙げることは、意外とむずかしい。もちろん顔が好きだったり、しぐさが好きだったり、共通の趣味がうれしかったりはあったとしても、それは「恋に落ちたこと」へのほんとうの理由にはなりえない。そんなの関係なしに、なんだか好きになっちゃった、がほんとうだろう。自分の「好き」を自覚し、言語化することは、相当にむずかしい作業なのである。

「だからこそ」と、ぼくは書いた。

本を読むとき、他人の文章に触れるときには、「自分が嫌いな文章」に注目しよう。生理的に「なんか嫌だな」と思った違和感を忘れず、その「生理的に嫌」の理由を掘り下げよう。

好きな文章について「なぜ自分はこれが好きなんだろう?」と考えたところで、「だって、いいじゃん!」以上に的確な答えにたどり着くことはむずかしい。でも、嫌いな文章だったら、もう少し冷静に「嫌いな理由」を言語化することはできるのだ。

結果としてそれが、「自分がどうありたいか」を知り、「そんな自分はどんな文章を書いていきたいか」を知る、いちばんの手立てとなる。

だから文章を読むときには、「いい文章/悪い文章」という分けかたではなく、思いっきり主観に寄った「好きな文章/嫌いな文章」の分類を大事にしよう。乱読とはある意味、自分の「嫌い」を知る旅なのだ、と。


これ、たぶん生き方とか働き方にもつながる話で、ぼくは自分の「好き」と同じくらいに「嫌い」を大事に、「なんかヤだな」を大事に、自分の進む道を考えているなあ、と思ったのでした。

わざわざ口に出す必要はないけどね、やっぱり大事だと思いますよ、生理的な「あれはヤだな」とか「あっちには行かない」の直感は。