見出し画像

残り物の赤インゲン豆スープとひき肉の援助風ワンプレート

 スクリーンが暗くなると、ほどなくホールの明かりが灯った。
 胃の腑から喉元まで湧き上がる戸惑いや苛立ち、しびれる酸っぱさを含んだ苦味を気取られないよう、抑えがたい己の昂ぶりを無理やりねじ伏せつつ目線だけを横へ向け、やはり居心地悪気な人影に声をかける。
「懇親会、どうします?」
 その人影、おととしの夏にトークライブで知り合ったショートカットのちょっと猫っぽい娘は(マガジン「カマキリの祈りよ、竈神へ届け!」の「平らな顔の冷凍ピラフ」に掲載)そっと俺へ顔を寄せ「ぶっちして帰るけど、お茶とかします?」と返した。
 細い首に巻いた古風なストラップは、これまた古臭い革の速写ケースへ続き、白銀に輝くレトロデザインのカメラを包んでいる。ボディの正面でひときわ目を引くガラスのファインダ窓は吸い込むような透明さで、持ち主を狂わせる厄介な魔力を誇示していた。
 俺は立ち上がって荷物をまとめる間、ちょっと猫っぽい娘はおぼつかない手つきでケースの前蓋をパチパチとホックで止め、いささか乱暴にカメラをバッグへしまい込む。イベントホールを後にして雑踏に紛れると、ベッタリと重い疲労感がのしかかった。
「待って、待って、少し早いよ」
 思いのほか早足だったらしい。追いついた猫っぽい娘に非礼をわび、とりあえず目についたファミレスへ入る。猫っぽい娘は軽く会釈すると喫煙席に陣取って、やたら甘い香りのリトルシガーに火をつけた。濃厚な紫煙と駄菓子めいた懐かしいにおいが立ち込め、俺の舌まで甘酸っぱくなる。
「久しぶりだね」
「えっと、最後にあったのは……」
「リアルで会うのは二度目じゃないかな?」
「あ~そうかも、去年は忙しかったから」
「なんか、気がついたら就職しないことになっててびっくりしたよ」
「うん、あんなことなっちゃったから、だれとも関係ないところ行こうってさ」
「それで、美大の院に」
 曖昧にうなずきながら、なれた様子でミニシガーをゆったりふかす。おそらくは繰り返されたやりとりだろう、煙に巻くしぐさまですっかり堂に入ったものだ。ただ、ちょっと猫っぽい娘が経験したあんなことを充分に理解している俺ならば(マガジン「カマキリの祈りよ、竈神へ届け!」の「鶏もも肉のソテーとクリスマスのステキなお知らせ」に掲載)、あえて靄の彼方へ挑むこともできなくはない、そんなことがチラと頭をかすめる。
 いや、流れを変えよう。甘い煙幕の向こうへ切り込むのは、やはり無謀すぎる。
 なぎ払うようにメニューをたたんで、軽い食事と飲み物を注文した。
 そして、ドリンクバーへ向かおうと立ち上がりかかった瞬間、猫っぽい娘が静かに決定的な言葉を差し出す。
「あんなにスピリチュアルなもんでしたっけ? アートって……」
「たぶん、違うね」
 それだけ言って、俺はコーラを取りに行った。

 なかば乾いて張り付いたチーズとミートソースをつつく俺も、飲み干したワイングラスの水滴を見つめたままの猫っぽい娘も、考えていることはたいして変わらない。違うのは正気度の削れ具合というか、ダメージコントロール能力だが、これは露骨に経験がモノを言う。それに、若くてやや細身の女性というのは、それだけでハンディキャップだった。たとえ、おっさん連れであっても。
 タイトルからして『ひとりで制作するフォトアーティストのための写真術』だったし、俺を誘ってリスクヘッジをかけたところも悪くはなかった。とはいえ、わざわざ『フォトアーティストの』と称したセンスのきな臭さを承知のうえで参加したふたりであってもなお、思っていた以上に「ナマの表情」とか「古きよき時代の庶民の姿」や、挙句に「まだ社会にぬくもりがあった頃の無防備に屈託のない笑顔」といったエモワード連発のワークショップの雰囲気が俺には辛く、猫っぽい娘も講師が「レンジファインダは本物の視界、だからフォトグラファーが被写体の心と向き合うことができる」なんてのたまった瞬間、自分のカメラを隠したそうだ。
 午前の部が終わったところで既にグロッキー気味だったところへ、午後の撮影実習では猫っぽい娘に間合いを詰める男が現れ、微妙な空気に耐えられず場所替えなんてイベントまで発生したから、心も体もすっかり参ってしまった。どうにかこうにか踏みとどまっていた俺も、スクリーンに『ソーシャル活用はアーティストのステージアップ』とか『アートで地域再生』とか投影された段階で脳が視覚情報の受け取りを拒否してしまい、最後の方はよく覚えていない。
 こうして、ふたりそろって顔をしかめつつ、吐き出したい思いをすっかりぶちまけた頃には日もとっぷり暮れ、猫っぽい娘がひとりで飲み干したデカンタの水滴もほとんど流れ落ちて、テーブルにちょっとした水たまりを作っていた。
「おじさん、これからどうするの?」
「かえって飯、かな」
「行ってもいい?」
 罠? は言いすぎか。
 かと言って、ホイホイお持ち帰りするのも微妙な関係だし、抑えがたいニヤケ顔や心と股間のガッツポーズを無理やりねじ伏せ、なんとか「大丈夫?」とだけ返す。
「ん~だいじょぶ。明日は休むつもりだったし」
 決壊した……。
 そそくさと荷物をまとめる傍らで、猫っぽい娘が「まさか、あんなカメラ屋のコピーみたいなこと、ほんとにいう人がいるとは思わなかった」と言いながらカメラを無造作に引き上げる。
「カメラに罪はないよ」
 見かねて軽くたしなめた。
「だってもらい物だもの、思い入れないんだよね」
「めんどくさい人からの贈り物とか?」
「ううん、そういうんじゃないけど、セックスしたらクレた」
 俺は無言のまま目をそらし、会計を済ませるとふたりでファミレスを出た。

 ターミナル駅で私鉄に乗り換える際、猫っぽい娘が駅ナカのテナントで買い物すると言い出した。
「なに買うの?」
「ワイン」
「お酒なら近くでも売ってるよ」
「氷とおつまみは近くで買うけど、高くてもちゃんとしたお酒が美味しいのよね」
 そうかそうかとうなずく俺に、猫っぽい娘は「心配しないで、私が買うから」とかぶせる。
「ビールぐらいはあるよ」
「ん~ビールは嫌い、味もわからない。それに……」
「それに?」
「居酒屋で飲むビールは美味しくないし、悪酔いする」
 曖昧にうなずき、高級輸入食材店を目指す。
 居酒屋のビールがまがい物になったのはいつごろだろう?
 俺はもともと酒をほとんど飲まなかったし、居酒屋の喧騒も苦手だったから思い出せるはずもないのだが、それでも『昔のビールはちゃんと味がした』なんて台詞が、危うく口からこぼれそうになった。
 賑やかな通路から静かな店内へ入ると、全く予想していなかったワインコーナーの充実ぶりに圧倒されてしまう。棚をうめつくす様々なボトルの前で、俺は途方に暮れるばかりだ。
「ワイングラス、ある?」
 小声で訪ねる猫っぽい娘に、首を振りながら。
「いつもマグカップ使ってる」
「そか、ならこの辺だね」
 勝手知ったる風に膝をつき、足元の木箱から黒いガラスに赤白上下分割の、左上に青地ひとつ星ラベルが鮮やかなボトルを取り上げた。
「ここでつまみも選ぶから」
 ワインボトルを抱えた俺を引き連れ、勇ましくチーズ売り場を闊歩する。なにも言わず目に鮮やかなオレンジ色のくし形切りパックと全粒粉のクラッカーを持ち、レジへ向かうと俺の手からボトルを取り上げ、自前のカードでパッパと会計を済ませた。

 猫っぽい娘には奥の居間兼寝室で座ってるよう言いおくと、買ってきた氷とソフトドリンクを冷やす。チーズはパックのまま全粒粉クラッカとテーブルの隅に寄せ、とりあえず手を洗ってワインオープナーを探していたら、奥から声がした。
「本棚はないの?」
 どれどれと居間兼寝室へ顔を出したら、猫っぽい娘はクッションに寄りかかって、折りたたみ座卓に積まれたハードカバーをつついている。
「ここにはないね。本は下の仕事場においてるんだ」
「だよね。良ければ見せて欲しいんだけど」
「いいけど、いま?」
「うん、できれば」
 どうせカメラをしまうからと、ついてくるよう手招きしつつ階下へ向かう。本棚に興味を持つ理由をたずねると。
「本棚みるの好きだし、ゼッタイあるって思ったから。机の本をみた時、そう思った」
と浮かれた答えが返ってくる。
 扉をあけ、いまどき珍しい蛍光灯のスイッチを入れると、猫っぽい娘に「写真関連の本は手前の本棚」と言いつつ、スリッパを用意した。猫っぽい娘は軽く会釈し、もどかしげに棚へ近寄って、なにごとかつぶやきながら背表紙を確かめている。奥の仕事部屋にカメラをおいて戻ると、ナン・ゴールディンの巨大な写真集をめくっていた。
「写真評論とか、記事とか書いてたんですか?」
「いや、そっちには縁がなかったけど、なんで?」
「コレクションはまだらで小ぢんまりしてるけど、メルクマールはきっちり踏んでる」
「どういたしまして、ありがとう」
 聞いているのかいないのか、猫っぽい娘は棚の方を向いたまま、写真集と映像ソフトを引っ張りだす。
「これ、観てもいい?」
「いいよ、復刻版と私家版だけど」
「そなんだ、学校の図書館にもなかったから、ちょっとびっくりしちゃった」
 手にした『センチメンタルな旅』復刻版と『I'll be your mirror』のDVDを見つめる猫っぽい娘をうながし、いろいろやりっぱなしの部屋へ戻る。本を片付け、なんとなくよさ気な場所へ座卓を置き直すと、猫っぽい娘が求めるままワインオープナー付きアーミーナイフとワイン、マグカップ、それから氷に樹脂のボウルを添えて盆に並べ、ままごとのようにお膳立てした。
「チーズはどうする?」
「表皮は削ってあるから、パックのままクラッカーにスプーンつけてちょうだい」
 これまた猫っぽい娘に言われるまま、高級そうなチーズとクラッカーをざっくばらんに渡す。他に何か食べるかたずねたら、少し考えて「お任せしちゃっていい? ストックわからないし、ヨソの台所あれこれするの気が引けるから」と俺の目を見て微笑んだ。
 若い女が中年男をくすぐる小ずるさというより、育ちの良さをからくる屈託のなさだろうが、非モテ避けバリアにもなっているんだろう。無自覚だろうが、相手のテリトリーを尊重する気遣いを、もてない男はおうおうにして無関心や拒絶と受け取るから。むしろ俺は猫っぽい娘のそういうところがありがたく、そして心地よかった。
 簡単に食事を用意するあいだ時間を潰すよう伝えると、マイクロウェーブクッカに無洗米と水を突っ込んで電子レンジへセットし、マカロニ入りトマトビーンズスープを取り出す。オムレツのチリセロリフィリングが少し残っていたので、先にきのこと混ぜて鍋で軽く炒め、缶を開けペースト状のスープを加熱する。先に炒め始めたひき肉とチリ、そしてセロリの強い香りが立ち込めたが、水を加えると少しずつおさまっていった。
 スープができたと猫っぽい娘に告げたら、写真集を観てから食べると返ってくる。復刻版とはいえ、スープ食べながら写真集を観るのは確かによろしくない。シンク周りを簡単に掃除し、グレープフルーツジュースを片手に部屋を除くと、猫っぽい娘は氷を入れたワインをちびちびやりながら、真剣に写真集をめくっていた。
 ジュースに氷を入れようと手を伸ばしたら、袋ごと樹脂ボウルに突っ込んで結露を減らしている。それなりにいいところのお嬢さんだろうに、こういうところへ気を回すところなど、バブルと呼ばれたレス・ザン・ゼロの華やかな狂乱を薄っすらと覚えている俺でなければ、意外に感じることもないのだろうか?
 つと、立ち上がった猫っぽい娘は部屋を見回して「これ観たいんだけど、どうしたら良い?」と『I'll be your mirror』のDVDを軽くふった。
「あ、パソコンたちあげるから、ちょっと待ってて」
「ソフト買うほど映画が好きっぽいのに、専用機はないのね」
「部屋が狭くてね……」
「これ、売ってないでしょ?」
「うん、たぶん教育用。ただ、別のインタビューも収録されてる。字幕ないけどね」
「英語だよね。滑舌悪い人?」
「落ち着いた語り口で、音声も丁寧に処理されてる」
「じゃ、たぶんだいじょうぶ。いちおう、アメリカ帰りだし」
 マシンを立ち上げ、外付けドライブにディスクを突っ込み、座卓から見やすい位置にモニタを動かす。外部スピーカの位置も多少調整したところに、レンジアップの間抜けなシグナルが『チン』と鳴った。
 頃合いよく動画も始まったので、猫っぽい娘に観えるかどうか確認し、遅い夕食を用意する。マイクロウェーブクッカの飯をプラの平皿へよそい、温めなおした赤インゲン豆のトマトスープをぶっかけた。見た目はともかく、チリとセロリのニオイが安いひき肉のエグみを綺麗さっぱり消し去って、トマトの赤みがどす黒く変色したシェルマカロニを優しく包み込んでいる。
 ニオイを嗅いでいるうちに空腹感が強まって、ちょっと耐え難くなっていた。いそいそ猫っぽい娘の隣にしゃがみ込むと、無言でわしゃわしゃかきこむ。
「いいにおいだけど、見た目はすごいね」
「美味しいよ。食べる?」
「うぅん、観てからにする。それより、もう少しこっちきていいよ。難民みたい」
 短パンとヨレヨレのシャツでプラ皿の飯を書き込む姿は、確かにそのとおりだ。皿をおいて、そっと立ち上がったところに、猫っぽい娘が声をかける。
「すこし、巻き戻してくれる?」

 それから本編が終わるまで、猫っぽい娘は神妙な面持ちで動画を観続けた。ワインを手酌するときも、チーズをスプーンですくい取る時も、画面から目をそらすことはなく、耳は真剣に音声を拾っている。時折、息を呑んで画面を凝視する猫っぽい娘には、触れることはおろか、話しかけることすら出来ない。
 結局、おまけのインタビューまで通した挙句、ワインも空にしていた。
「メモ取ればよかったよ。ねぇねぇ、まぁた観せてくれるぅ?」
「もちろんいいよ。それより、大丈夫?」
「ぬ~ん、ちょっと、ちょっとだけ、眠くなっちゃったかも」
 あわてて座卓を部屋の隅に寄せ、とりあえずマットレスを広げる。猫っぽい娘は「ごめんね……ありがとう……」とつぶやきながら、広げたばかりのところへちゃっかり横たわり、もそもそシャツを脱ぎはじめた。どこかで、こうなるだろうと思っていなかったわけではない。だが、それでも面白かろうはずもない。
 ため息ひとつこぼして、食器や食べ残しなどを台所へ片付ける。簡単に皿を洗って部屋へ戻ると、裸にパンツだけの猫っぽい娘が、既にすっかり眠り込んでいた。自力で服を脱ぐ程度には意識もあったようだが、念のため回復体位を取らせておく。
 背中に汗をかいていたので、起きてくれればと思いつつ堅く絞った濡れタオルでざっくり拭うが、ピクリともしなかった。やれやれ、まぁ次の機会もあるだろうと、寂しさやら苛立ちやらを気持ちの片隅へ放り投げ、改めて猫っぽい娘の細いうなじとすっきりした背中、そして思いのほか大きく張っていた尻の厚みをながめる。
 じわじわと下腹から浮かび上がるウズキが、切なさをつのらせていた。
 猫っぽい娘の腰をそっとなで、身体を添わせるよう横になる。規則正しい寝息と静かに上下する胸を感じながら、久々に大きくいきり立つ男根が、呆れるほど力強く存在を誇示していた。
「アカン……」
 小さくひとりごち、トイレに向かう。
 そのまま済ませてもかまわないのだが、なにか妙に癪だった。
 ロールペーパーをたっぷり左手に巻き取り、ふたたび猫っぽい娘に沿って横たわる。
 急に若返った分身にみなぎるなにかをはっきりと感じつつ、脈動するそれをしごき、ほとばしる精を左手に受け止めた。

 翌朝、猫っぽい娘は「いろいろありがとう、また来ます」と言って部屋を出ていく。

 駅まで見送ろうかという俺に、レトロなカメラを優しく肩へ引き上げながら「ううん、道を覚えたいから、ひとりで行くね」と答えた。


ここから先は

0字

¥ 100

¡Muchas gracias por todo! みんな! ほんとにありがとう!