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サブカル大蔵経924箕輪顕量編『仏典とマインドフルネス』(臨川書店)

マインドフルネスが一般社会に紹介されてから、仏教者の間から起きてきた批判に、正面から答えようとした試みp.297

マインドフルネスってよく聞くけど…。

怪しいなぁ…と思っている間に、世界や科学では、仏教よりも上位概念になりそう。

今このnoteでハッシュタグの登録数を見ると、「仏教」は約1万。「マインドフルネス」は約2万でした!仏教の倍…。

マインドフルネスとは、「今、この瞬間の体験に、意図的に注意を向け、その現実をあるがままに知覚し、それに対する思考や感情にはとらわれないでいる心の持ち方」と定義づけられており(熊野2012)、近年、マインドフルネスを中心とした心理療法が、うつ病や不安障害を始めとした精神疾患の治療に大きな効果があることが分かっています。p.136

治療。マインドフルネスとは、実は、ジーヴァカ的な仏教の本流なのでしょうか。それが現代に求められている仏教の力なのかもしれません。本書でもうつ病などの治療法として紹介されています。

それにしても戒律や坐禅中心の系統と真宗の念仏は遠いようで、実はこのマインドフルネスの定義に念仏が近いような。禅も念仏もマインドフルネスという欧米語を補助線として、一緒になれないのかな。

本書は仏教側、科学側それぞれからの文書を編んだものですが、双方の中間に位置付けられた佐久間秀範先生の論文が出色でした。

仏教の衣を抜き捨てた時そこにあるのは何なのだろうか。本当の仏教かもしれない。

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前者がサマタ(止)、後者がヴィパッサナー(観)と呼ばれるようになったと考えられます。p.35

 止観は止と観。それぞれ違うのか…。

最後に魔境です。こちらは幻覚的なものと考えられますが、その原因が精霊的なものと認められるときは、精霊であると名指しすることで、消えていくとされました。p.62

   幻覚の消し方。名前の力が鬼を倒す。

本来ことばで表せない状態をあえて言語化することをアビラーパといいます。これを私は「言語表現」と日本語訳しました。p.98

 初転法輪。言語化という仏陀の挑戦。

修行者たちが本来言語化できない体験を弟子達に伝えなければならない必要性があり、その上でヨーガ行者はサンスクリット語という言語を選んで記述しました。p.103

 文献ありきではない。体験ありき。それを伝えるために「サンスクリット語を選んだ」という記述が新鮮。

しかし「ウイルスは生物ではない」とすると、そこからさらに進んで「だから撲滅して良い」というような考えを生み出すことになります。こうした定義づけの元凶が言語概念です。p.107

 言語化の弊害。言葉が人を魔にさせる。

言語表現に依らずに修行者は最終的に"もの"そのものの「あるがままの姿」を受け入れることになります。これはブッダの境地であるとしています。p.128

 言葉で表せない真如が来る「如来」。

5.思考は現実ではないp.139

 グループ療法のプログラム。

マインドフルネスは、様々な体験やそれに対する心の動きに気づくことを連写しますが、気づこうとして自分の体験を見つめる目線にもまた、習慣となっている見方や偏りがあります。p.161

 私は気づいているという執着。

マインドフルネスの指導者は、集中することが目的ではなく、注意が逸れたことに対しても気づけるようになることが重要であると教えます。p.250 

野球漫画『クロカン』の中に「集中!」という言葉が出てきます。集中とは、ひとつのことに視点を絞るのではなく、視野が開けてくる概念でした。


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