見出し画像

サブカル大蔵経21三枝充悳・岸田秀『仏教と精神分析』(第三文明社レグルス文庫)

 最強の一般人・岸田秀の質問に、仏教学者・三枝充悳の学識が大開放する奇書。どんな仏教入門書よりもわかりやすかった。後半は一転、岸田理論に対し三枝のねちっこさが爆発!クリティークの嵐。

おそらく、仏教は、人類にとっても、日本人にとっても、きわめて古く、同時に、きわめて新しい。そして、その中には実に多種多様なものが、さまざまな感性やら情念やら知性やら天才やらなどによって、こめられており、外に対しては、ふくらんだり、へこんだりしてきた。まだまだ仏教から取り出しえるものは、多く、深く、ありそうに見える。」p.6

この三枝の思いを、理想で終わらせたくない。

「そのイメージを介さないと認識に到達できないという考え方なんですね。」「そうそう、そうしないと対象が認識されない。だから、必ずイメージを通す。それを漢訳では「想」と言います。」p.19

初めて五蘊などの説明がしっくり来た。

「"自己矛盾“が苦しみなんですか。」p.22

ドイツ留学、比較思想を土台にした三枝の意欲的な仏教用語説明。

「ウパニシャッドというのは本の名前ですか?」p.24

この岸田の質問、フレーズ大好き。わかったふりしない姿勢。根本的な感じがする。

「公案というのは、ぼくなんかには非常に精神療法的に見えるんですけどね。こんなこと言っちゃおこがましいかもしれないけど、あれは結局、無意味ですよね。」p.35

無意味ゆえの意味の解放。禅と精神分析の異端性と革新性。

「すると新興宗教の幾つかは、泥棒したわけですね、みんながため込んだやつを。」
「それはどうかな。いわゆる知識人は敬遠したがりますけど、たとえば、創価学会は創価学会として、一つの機能を充分に果たしている泥棒思うんです。」p.75

まさかレグルス文庫で学会批判ネタがぶつ込まれるとは。三枝のフォローのおかげか。

「仏教自身が、なんらかの形で絶えずある一つの問題を提起しては、それを処理して行く、そういう緊張感のようなものが弱まっていって、ついには、なくなっちゃったという感じですね。」p.118

インドで仏教が滅んだ理由のやり取り。そのまま今の日本に通ずる。

「自我というのは幻想なわけで、自我を支える欲望は無を支えてるんだから、本質的にむなしいわけですよ。そのむなしさ、あほらしさを自覚し、そんなあほらしいことはやめようということになれば、それは解脱と言ってもいいじゃないか。」p.129

岸田の真骨頂。この辺がサブカル大蔵経的。僧侶より僧侶的人物発見。

「岸田さんのほうで逆に動物を特権化しちゃってるような感じをちょっと持ったのですけど、その点はどうかしら?」p.148

私もこうしがちなので、少し立ち止まる。

「無機物と言うのは、いわば安定してるわけですね。生命は不安定な状態です。死があるし、植物だって枯れるし…。そういう無機物ばかりの安定した世界に、どうして不安定な生命と言うものが発生したのか、僕はよくわからないんです。」p.156

不安定こそいのち。

「我々の周囲にあるものはすべて疑似現実ですね。そうすると擬似現実を壊すと言ったって、擬似現実で壊す以外ない。」
「そうです。幻想を持ってしか幻想を壊せない。」p.167

事実は幻想。そう思えないわたし。だからこそ、「如来」という概念が生まれたと思う。

「そこが仏教と僕の違うところです。悟りなんてない。悟りそのものが幻想ですからね。」p.168

悟りという最大の幻想。その解釈の歴史が、未完成だからこそ、仏教の命脈となる。未完成を完成させたいという後世の熱がやまないガンダムみたいに。

「支えていたその当のものが崩れ去ったことによって、そこに自我の動揺が始まると言っていい。」「そうですね。」「だから、自我が絶対と言う事は、自我そのものが、絶対なのではなくて、自我を支えていた何かがある。」p.207

自我の動揺こそいのちの真髄か?

「仏教そのものが布教をそれほど重要視していないところが見られるんです。仏教は、お釈迦さんの頃からそうなんだけど、質問を向けられた者にしか答えていないことが多い。」p.258

一方的な布教や著作をいましめたのか。

画像1


この記事が参加している募集

本を買って読みます。