サブカル大蔵経686柴裕之『図説豊臣秀吉』(戒光祥出版)
あらためて豊臣秀吉とは何者だったのか。本書にたどり着き読んでいくと、織田信長の次男、信雄の存在が気になりました。実は彼こそ、最も信長・秀吉・家康を間近で接してきた男ではないでしょうか。大河ドラマ主人公でもいいと思いました。
信長も秀吉も年表通りにすんなりと行っていないことも本書で知りました。
信長は織田家当主の立場を嫡男の信忠に譲り、天下人としての活動に専念する姿勢を示しp.37
〈家〉を収め、〈家〉から自由になることが天下の条件か。信玄も謙信も得度してるし、院政にも近いかな。
備中国高松から畿内への秀吉の進軍は、当時の移動距離としては決して早いものではない。p.64
驚いたのですが、〈中国大返し〉の時、姫路で3日間も休憩してるんですね。
岐阜城に入った信孝が安土城修築の間、岐阜城に滞在していた三法師を後見することを利用して父信長の後継の天下人として振る舞い、織田家を主導しようとする。この事態に秀吉は信孝と対立していく。p.69
清洲会議の後、結局三法師は秀吉ではなく、信孝・勝家の側に入ったのですね。
織田信雄(清洲会議後に名字を北畠から織田に改姓)を、三法師の名代としての当主に擁立する。p.70
そこで信雄が織田に戻されていく。
安土城を逐われ伊勢長島城に入った織田家当主の信雄は、まず領国内の整備に取り組んだ上で、10月から父信長の「天下布武」印に似た「威加海内」印文を刻んだ馬蹄形印判を使用して領国支配に臨んでいく。p.78
織田家当主となった信雄の領国支配。
織田信雄による津川雄光・岡田重孝・浅井長時の殺害は、秀吉との断交を世に示す政治行為であった。信雄はこの殺害を、徳川家康に相談の上実行した。p.80
信雄は、秀吉から家康に移る時、スパイ的家臣を斬首したみたいですが、大胆というか、源頼家みたいに二代目は殺されてもおかしくないはずですが。すごい渡世術。
不利な戦況に、信雄は秀吉の陣所へ自ら願い出て、講和がなされた。p.83
まさかの家康からまた秀吉に戻る信雄。この後また家康につく。『へうげもの』でも有楽斎と一緒に淀城にいたところが描かれていましたが、有楽斎以上のしたたかさを持っていたのでしょうか。
秀吉の融和の意向を受け、家康との交渉を任された織田信雄は、三河岡崎城に赴き、家康と会見して秀吉との和睦をまとめた。p.87
交渉人・織田信雄。真田離反、数正出奔に苦境の家康のもとへ。天正地震の直後。
一般には秀吉は羽柴から豊臣に改姓したとされる。しかし、これは誤りである。豊臣は氏で、羽柴は名字にあたる。p.90
トヨトミの、羽柴秀吉か。
秀吉は「唐入り」に際して諸大名に対し自身の強壮薬とするための虎の捕獲とその肉の日本への送付を命じていた。p.118
この辺の欲望がガチですごい。そのための戦争だったのか。