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サブカル大蔵経262デイビッド・T・ジョンソン/笹倉香奈訳『アメリカ人のみた日本の死刑』(岩波新書)

死刑は常に、そしてどの国においても国家権力の発動である。したがって当該国家の性質や国家行為のコンテクストを分析することで、その国の死刑制度の安定性や変化を理解することができる。つまり、日本の死刑存置の謎を解くためには、日本の国に焦点を当てなければならない。p.9

死刑という制度がその国や政治の性格をあらわしているということは何となく解った。

日本という国は変わっているのだろうか。責任の所在についてあやふやにする、という体質なのだろうか。

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死刑制度自体には反対する。でもこの事件は別だ。という村上春樹氏のこの議論は、日本における死刑制度をめぐる議論に共通する感覚を表現しているように思う。つまり死刑は「やむを得ない」と言う感覚だ。p.ⅱ

 オウム事件の被害者を取材した村上春樹が〈死刑はやむを得ない〉という思考停止があると引き合いに出される。少しギョッとしたが、ひょっとして、原発も同じ構造かと、何となく思った。

地下鉄サリン事件を防げなかった警察の重大な責任から目をそらすことになる。p.ⅵ

 隠すためには、なんでもやる、みたい。

要するに日本の死刑が維持されている理由の1つは、死刑が様々な当事者やそれを見守る者にとって積極的な機能を有しているからである。死刑を批判するものは、この現実を直視する必要がある。p.22

〈積極的な機能〉。死刑がある現在でも、平松伸二の諸作品や、渡邉ダイスケ『善悪の屑』シリーズなどの違法復讐劇が共感を得ている。必殺シリーズや忠臣蔵もか。被害者の無念と、罰せられない加害者への憤り。死刑制度とこの問題は関係あるのか。

死刑事件の制度や手続きの実際を見てみると、死刑事件を非死刑事件と同じ扱いを受けていることがわかる。つまり日本では死刑は特別ではない。p.28

 たしかに死刑は特別だが、ものすごく特別という感じもしません。地続き感。

死刑確定者は実際に死刑が執行される1時間から2時間前になるまで執行の日時を知らされない。「お迎えが来たぞ」と突然告げられるこの方式は「不意打ち」と呼ばれている。多くの死刑確定者は、数年あるいは何十年もの間、毎朝のように今日が最後の日になるのではないかと言う恐怖感にさらされながら過ごす。p.54

国が隠れて殺す死刑と群衆の中での死刑。ギロチン、射殺、ハラキリ、斬首。今は西洋は薬殺、日本のみ絞首。

教誨師は国が認めた聖職者の中から選ばれる。そしてその中に死刑廃止を明言するものはいない。政治的であるとみなされる活動した場合には候補者から除外される。また死刑確定者に希望を抱かせるような言動も禁止される。p.55

 教誨師もいろんな制約があるんですね。死刑という前提の中の存在。

他国と同様、日本でも一部の死刑の執行は確実に失敗していると思われる。執行が失敗して、刑務官の1人が柔道の絞め技によって事を終わらせたということを、刑務所当局の人間から聞いたことがあると、ある元検察官が筆者に語った。p.62

 器具をもたない殺人。法律とは何か?

もし欧米から優れた社会学者が日本の警察を研究すべく来日して調査活動を始めたとしたら、その学者は間違いなくこの国を「おかしな国」だと思うに違いなかろう…。p.105

 殺人を肯定し、殺人を前提とする国。昔の映画の人喰い人種のようか。

日本の役人たちは、死刑が応報によって正当化されると言う。しかし、実のところ応報と言うのは形を変えた被害者の復讐である。p.129

 仇討ち文化は駄目なのかなあ。イスラムとかはたしか仇討ち普通なのでは?

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