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サブカル大蔵経959柳澤健『2016年の週刊文春』(光文社)

週刊、本誌、ナンバー、エンマ、単行本。次々と入り乱れ、現れる人間山脈。会社を助けた者が会社を傾け、敵だったライバルと助け合う。『マハーバーラタ』のような叙事詩であり、『麻雀放浪記』のようなバクチの記録でもある。

文藝春秋が実は雑誌メインの小さな会社という描かれ方が意外でした。文藝春秋の唯一のライバルは新潮やポストでなく「噂の真相」で、両者をつなぐ西岡研介さん。

本書の印象は、

① 出版社とは

② 編集者とは

③ 著者・柳澤健のすごさ。です。

勝谷誠彦は早稲田大学おとめちっくクラブ出身。私が大学時代にまんが専門誌『ぱふ』に関わっていたと聞くと、竹宮恵子ファンクラブ『さんるーむ』会員番号No.1の会員証を見せてくれた。p.484

柳澤健の異能。

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① 出版社とは

作家を抱え込むという発想は、文藝春秋にはそもそもない。p.92

 ひとりの作家より、万人の市井の人間。

第二弾が出ることはついになかった。それどころか、〈田中角栄研究〉の単行本も文藝春秋ではなく、講談社から刊行されたのだ。なぜだろうか?p.116

 梯子を外された立花隆。水道橋博士『藝人春秋』の続編『藝人春秋Diary』が文藝春秋から出なかったのは繰り返す歴史か。深淵なる駆け引きか。

斉藤十一の俗物主義とニヒリズムがページの隅々にまで行き渡るプロフェッショナル集団『週刊新潮』に、おおらかで明るいアマチュア集団『週刊文春』は手も足も出なかった。p.129

とにかく本書では、文春の明るさと家族主義が強調されていました。新潮側の反論も読みたくなりました。

「僕はそもそも法ってものを、全然信用してないんだよ。だってあれ、人間が書いたものだろ。」p.325

ある事件での「FOCUS」の報道において、新潮社の天皇・斎藤十一に文春がインタビューで代弁させる。この辺りの恩讐や垣根を超えた連携がカッコ良すぎます。

編集長となった加藤晴之は、再び西岡を口説いた。『週刊文春』で果たせなかったJR東日本革マル派のキャンペーン記事を『週刊現代』で一緒にやろうー。/定年後、フリーランスとなると加藤企画編集事務所と実質ひとりの事務所を構え、西岡研介の協力を得て2019年4月に牧久『暴君新左翼・松崎明に支配されたJR秘史』を講談社でなく小学館から出版した。p.379.381

ジャーナリズムのために出版社が数珠繋ぎのようにどんどん変化していくすごさ。出版社とは、芸能人での事務所、宗教なら宗派、プロレスなら団体か。

本書も週刊宝石で連載のち光文社から単行本。中央公論に勤めていた宮脇俊三が中公から本を出さなかったことと似てるのか?

② 編集者とは

「お前、昼間から本なんか読んでちゃダメだ。外へ出ろよ。映画を観てもいいし、芝居でもいい。観たいものがなかったら百貨店でも回ってこい。本は夜に読めばいいんだって」(岡崎満義)p.84

 池島信平の助言。これ読んでから、昼間に本を読むの控えるようになりました。

「昼飯も食堂で食うな。外で食ってこい。そのくらいのカネは出してやるって。お前のアタマなんかたいしたことない。貧弱な頭蓋骨が一個しか入ってない。外に出て10人優秀な人、新しい人に会えば、素晴らしい頭蓋骨が10個増えることになる。これをやらないと編集者は生きられないよ。社内と人間と話したってムダ。どうせ人事の話ばっかりだ。」p.105

 斎藤禎が語る田中健五のエピソード。これ読んでから昼飯は外食を心がけるようになりました。

雑誌のプランとは疑問であり、疑問を解き明かすのが記事である。編集者が答えを出す必要はない。p.110

 田中健五の質問力。おそらく僧侶も同じなのでは。僧侶は問いを持ち続け、経典やサンガから答えを引き出す。僧侶とは編集者なのかも。

5月5日号の『週刊文春』の表紙は真っ白になり、1行のコピーだけが入った。「来週から表紙が変わります。」p.126

 花田紀凱とターザン山本の表紙主義。

「いまでも覚えているけど、会社に向かう電車の中で、みんなが『週刊文春』の中吊り広告を食い入るように見てたんです。まるで街頭テレビのように。」p.441

中吊り広告問題も文春と新潮で起きたこともありました。そして今や中吊り自体も消失。これがひとつの終焉なのでしょうか?


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