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サブカル大蔵経558田中美知太郎『古代哲学史』(講談社学術文庫)

田中美知太郎は、哲学者であり、文藝春秋の重鎮寄稿者である(知らなかった…)。國分功一郎さんの解説のおかげで田中美知太郎をテキストに、古代哲学史をプロレス的に読むことができました。

ところで、本書『古代哲学史』を読みながら読者が気付くのは、田中がこのアリストテレスに対してどこか冷たい態度を取っていることではないだろうか。(國分功一郎解説)p.305

また、本書の後半は、ヘラクレイトスの韻文の貴重な翻訳でした。

万物がけむりとなれば、鼻がそれを識別することになるだろう。p.231

ピュタゴラス…うそつきの元祖…。p.263

プラトンやソクラテスもそうでしたが、なんかギリシア哲学者って、言葉が軽やかというか…。仏典も軽やかに訳してもいいのでは?と思いました。

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それは少数天才の仕事であった。それは一般人の思想や感情を土台にするものであるとも考えられるが、時代時代についてみれば、むしろ一般の思想と対立し、思想家が孤独な立場にある場合も決して少なくはない。p.9

 仏教も釈尊の考えが、同時代の影響もありながら、どこまでオリジナルなのか論議になる所です。でも、孤独な天才説、なるほど…。

ひとはアリストテレスにおいて、ギリシア思想が代表されていると考えてはならないだろう。その綜合の仕方が、今見られたように、全く特殊なものだからである。わたしたちはこの分析家から、大胆な思想的冒険を期待することはできないが、しかしそのような冒険が、アナクシマンドロスからプラトンに至るまでの、ギリシア思想家の特色だったのである。p.75

 アリストテレスdis。しかし、アリストテレスを考えなしに崇拝するわたしたちを戒めているのかもしれません。それか、プラトン推しの意地か。このおかげで、単純なレッテルを貼らずに西洋哲学に臨める。

哲学を学ぼうとする者は、まず古代ギリシアの哲学について、なるべく直接的な知識をもつようにしなければならない。直接的というのは、後代のひねくった解釈や批判などを通してではなく、永い年月を経て今日まで伝えられた貴重の原物をー原語あるいは忠実な翻訳によってー直接自分で読んでみるということである。p.97

 今仲間と歎異抄のリモート輪読会をしているんですが、愚直に原文を初めて読むように臨んでいます。その方が読めるかも。

簡単に言えば、古代哲学の研究者が、その研究結果をどの程度まで、一般に理解させることができるかということが、またどの程度まで彼自身が、古代哲学を理解したかということになるのである。p.122

 一般に理解させる…。学者だけでなく、釈尊もここが分岐点だったような。

そしてわれわれは、この差異にによって、逆にまたわれわれ自身とわれわれの時代について、新しい発見をすることができるのである。理解は交互的であって、古代が現代から一方的に解釈されるだけなのではなくて、現代がまた古代によって理解されるのである。すなわち現代を知ることが、また古代を知ることであり、古代を知ることが、また現代を知ることなのである。この意味において、われわれは現代に生きているからといって、必ずしも現代を知っていはしないのである。逆にまたわれわれの古代哲学研究が、われわれに現代を見る眼力を与えなかったとしたら、われわれの勉強は無駄であったと言わなければならない。われわれにとって哲学そのものの理解は、このような交互理解として成り立つと言うことができる。しかしながら、このような交互理解が成り立つためには、古代はあくまで古代として、現代からの正しい距離において把握されなければならない。現代的な好みに従って、古代のうちから都合のいいものだけを選び出して、勝手な古代像をつくり上げるようなことは、厳にこれをいましめなければならない。p.124

 このことは、学生時代、先生に口酸っぱく言われました。なので、他人の文章において、上記の学問的逸脱には厳しくチェックしたがる呪縛にかけられたままです。それでいて、自分が何かを書こうとすると、ひとりよがりな逸脱をしてしまいます。


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