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人の脳みそは覗けないから、「言語化」が重要なのだ。

最近、本屋やSNSなどいたるところで「言語化」というキーワードを目にする。

デザインの言語化、思考の言語化……など、言葉で表現していないものをあえて(?)言葉に起こすムーブメントが起きている。
いや、私が知らなかっただけで、ずっと前から言語化重視の社会だったのかもしれないけれど。

私は、一応これでもライターなので、「言語化」というキーワードには敏感になりがちなのだが、最近さらに言語化を意識するできごとがあった。

それは、とある写真系コミュニティに加入したことだ。

「写真で言語化?」と疑問に思われそうだが、コミュニティオーナーでありYouTuberのふぁらおさん(通称:国王)は、とにかく言語化を大事にしている。

コミュニティ内では、写真を分析し言語化するやり取りが、絶えず繰り広げられている。

そんな彼の動画で「なぜそれを美しいと思ったのか、『美しい』の説明をできるのか?」という言葉を聞いたとき、正直ドキッとした。

私はライターのくせに、言語化に苦手意識があるからだ。


ここ数日、今までよりも深く「言語化」を意識するようになり、まずは「そもそもなぜ言語化が必要なのか?」を私なりに考えてみた。


ー「言葉にできないもの」がアートだと思っていた。


「言語化」といえば、私には一生忘れられないエピソードがある。

今から7年ほど前、音楽大学でクラシック音楽の勉強をしていた頃のこと。
当時お世話になっていた伴奏ピアニストから、私はいつもいつも怒号を飛ばされていた。


なんで、そうやって吹くの?
言葉で説明のつかない演奏なんて、するもんじゃない。
ものごとは全て、論理的に処理するのよ。


全然、意味が分からなかった。

音楽にしても写真にしても、アートという分野は「言葉で表現できないもの」だと認識していたし、あえて言葉にするなんで野暮だとすら感じていたから。


―説明ができないものを、人は信じられない。

その後ライターとして日々言葉を紡ぎ、文章に起こすようになって、「言葉にならない」がどれだけ弊害をもたらすかを思い知った。

クライアントに代わって、ものごとや商品・サービスを紹介するとき、「言語化」は避けて通れない。


なんかうまく言えんけど、美味いんで買ってくれ!!
言葉にはできないけど、めっちゃ良いんスよ!


こんな怪しい商品・サービスを、誰がほしいと思うんだろう。
「美味い」「良い」と分かってほしければ、なにがどう美味くて、どんな風によくて、購入後どんな気分になれるかまでを伝えないといけない。

私はアートの分野において、これを全部すっ飛ばしていたのだ。

「説明ができないけど、こう吹きました!」なんて、「このお菓子は多分美味しいです!知らんけど!食べたことないけど!」といっているようなものだろう。


ーアートとは、言葉の先にあるもの。

一流のアーティストほど「喋るの下手だから、歌を歌うんです」「自分を表現できるツールが、唯一絵だったんです」と語っている。

でもそれは決して「根拠はありません」という開き直りではないのだ。

きっと彼らに「どうしてここは赤色で塗ったの?」と聞けば、彼らなりの定義を持って理由や根拠を説明してくれる。
赤色で塗った理由が必ずあるはずなのだ。

ひょっとすると、それは決して分かりやすい説明ではないのかもしれない。
でも、「なんでかな〜、なんとなく?」と答える一流アーティストの姿は、正直想像がつかない。

よく、アートとは「言葉で表現できないもの」と捉えられがちだが、紐解いていくと「言葉で表現するよりも、さらに説得力を増すもの」なのかもしれない、と感じた。

言葉でもきっと説明はできるけど、言葉よりも音の方が、映像の方が、絵の方が、より伝わるから、その手段を使う。
アートとは、言葉の外にあるものではなく、言葉の先にあるものなのだと思う。


ー気持ちは言語化しないと、誰にもなんにも伝わらない。


至極当たり前の話だが、私の気持ちは私が言葉にしないと、誰も分かってくれない。
これは私に限らず、全人類みんなそうだ。

よく「察してあげる気遣いが大事」というが、私たちはエスパーじゃないので「察する」には限界がある。まあ、「察してほしい」の気持ちも分かるけど。

たとえば、相手の悪気ない言動が気に触ったとき。
「ムカつく」だけを全面に出して、なにがどうムカつくのか説明をせずに放棄していては、一生問題は解決しない。

誰かに「付き合ってください」と告白をされたとき。
私のなにが好きなのか、どこが好きでなぜ一緒にいたいのか、なにも言ってくれないと「誰でもええんやろか」と思ってしまう。

気持ちの言語化をどれだけサボらず、どれだけ向き合えるかによって、コミュニケーションの質が明らかに変わるのだ。


結論:他人の脳みそは覗けないから、言語化をする。

アートにしてもコミュニケーションにしても、共通しているのは、誰も他人の脳みそは覗けないということだ。

他人にとって見えないものは、存在しないのと同じなのではないだろうか。
だから、形にしないと人に伝わらない。

あちこちに散らばった思想を、「言葉」という万国共通のコミュニケーションツールに落とし込めるようになって、初めて人に届くのかもしれない。


ーまとめ(?)

言語化の重要性について考えたことを、バー―――ッと書き起こしてみました。

先述のとおり、私はライターのくせに言語化にそこまで自信がなく、おそらくほかのライターさんに比べると言語化能力はかなり低いです。

このnoteも「コイツ、なにがいいたいんや?」と分かりづらく感じた人も多いかと思いますが、思考の整理・備忘録的に残しておきます。

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