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あまいさみしさもはいいろのそこへ - 展示「涙の国」を終えて

展示を終えた。一旦「涙の国」での「涙の国」を終えた。
よかった。ホッとしている。ようやく息ができた気がする。

途中しんどくなって延々号泣しながらお友だちに電話で話を聞いてもらう茶番劇もあり、貯めていたくすり約80錠をバドワイザーで流しこんで死ねたらいいな〜の茶番劇もあり、それに伴って記憶が切れ切れになる茶番劇もあり(木曜日の夜から日曜日の明け方くらいまでのことをよく覚えていない)、電話で話を聞いてくれたお友だちにあろうことか八つ当たりをするという茶番劇もあり、これでわたしの2023年のめあてであった「他人の前で泣かない」「他人に八つ当たりをしない」を1月にしてあっさり反故にしてしまったわけである。きょうからまたやりなおそう。やりなおしてもいいかな。お友だちには申し訳ないことをしたと思っている。謝れたかな、謝れてないかな、次に会えたらちゃんと謝ろう、「茶番劇」と書いてしまったけれど、たぶんきっとたくさん傷つけてしまったと思う、たぶんきっとわたしのことをほんとうに助けてくれようとしていたと思う、そんなきもちを踏み躙ってしまった、申し訳ない

さて、とにかく息が切れた。11月くらいからずっと走り続けていて、途中からじぶんの意思では止まれなくなって、作れども作れども満足できず、ゴミばかり作っているのではないか、ゴミなのではないか。雲を掴むような作業ばかり孤独にしていて、これはじぶんでやると決めたことだからと思ってもくるしかった。わたしは自らくるしくなりにいっているのだな、大馬鹿だな。おしらせをすれどもすれども、だれか来てくれるのかわからない。だれも来てくれないかもしれない。枯れた井戸に向かって「あなたに会いたい」と呼びかけつづけているのではないか。自信がどんどんなくなってゆく。準備をしている間、ちいさな井戸を満たすくらいの涙は流してしまった。

実際に展示をさせてもらって、わたしの音楽をきいてくれているひとが、わたしの写真をみてくれているひとが、わたしの文を読んでくれているひとが、実在するんだ、という言葉にしがたい心のおおきなふるえが、抗不安薬や眠剤が切れて起こる振戦やミオクローヌスとはちがう、いとおしいふるえが、あいすべきふるえが、確かにあった。わたしの展示をみにきてくれるひとがいる。直接会いにきてくれるひとがいる。いいねやリツイートの数では、物販の売り上げだけではみえないひとがいる。よろこびとはこういうきもちなのか。バズるよりも、ここへきてくれて、わたしの目をみて、顔と顔をあわせて、おしゃべりをしてくれることがうれしい。「あなたに会いたい」と伝えつづけることには意味があった。枯れた井戸ではなかった。あなたがいる対岸に向かって、わたしは呼びかけつづけられていた。よくがんばったね。わたしはあなたに会えた。確かに会えた。会いに来てくれてありがとう。会いに行けないけどがんばってねって言ってくれてありがとう。わたしのことを気にしてくれてほんとうにありがとう。

あえて縦向きに配置した、本来は横向きの写真(街の景色の写真と玉ボケの写真)をみて「なんで縦にしたんですか?」「どういう意味があるんですか?」と質問してくれた方がいた。わたしにはわからなかった。

縦にしたほうが良いと思ったから。ZINEの表紙にするのにトリミングをしたくなかったから。縦にしたほうがスッとした感じになったから。この写真は縦であるべきだと思ったから。玉ボケがすきだから。光源がすきだから。フィルム写真は光のありかとその影を探す行為だと思っているから。なんとなく横のままよりイケている感じがしたから。でもわたしにはわからなかった。ひとつも上手に説明できなかった。「手触りで撮っていて」とか「感覚でやっていて」みたいなことしか言えなかった(質問してくれた方、上手に説明できなくて、あんまりなんにもわかってなくて、ごめんなさい)。

「透明感がある」「せつない感じがする」「世界観がある」などなど、たくさんたくさん感想をいただいた。うれしいことです。ほんとうにうれしいことです。けれど、わたしには「透明感」も「せつない感じ」も「世界観」も、わからなかった。三浦透子さんの声が浮かんだ。岩井俊二監督の映画が浮かんだ。尾崎世界観さんのことが浮かんだ。枝優花さんの写真が浮かんだ。plentyの音楽が浮かんだ。

ずっと、暗闇を、洞穴のような、洞窟のような、湿った暗闇を、手探りで、ひとりぼっちで、歩いている。ときどき手を差し伸べてくれたり、つないでくれたり、灯りを燈してくれたり、いっしょに歩いてくれたりするひとの助けを頼りに、ひとりぼっちで歩きつづけている。ときどき大馬鹿になって全速力で走ったりもする。息が切れるのも忘れて。そこに「透明感」はあるのだろうか。「せつない感じ」はあるのだろうか。「世界観」はあるのだろうか。わからない。「透明感」とはなんなんだろう。「せつない感じ」とはなんなんだろう。「世界観」とはなんなんだろう。わからない。わかりたい。

わたしにはわからないことばかりだ。わかりたいことばかりだ。

けれど、作るのはすきだ、あいしている、これしかできない。そういうきもちのはしっこをつかめたような気はする。生きていく自信は少しもないけれど、これからも作りたい、死ぬまで作りたい、作るしかない、と、思えることをだいじにしたい。忘れたくない。すぐに忘れてしまう。忘れて、勝手にどんどん傷ついてしまう。大馬鹿だ。大・大・大・大・大馬鹿(おお・おお・おお・おお・おおばか/そんな言葉はありませんが事実なのでそう記したい)だ。また何度でも繰り返し思い出せますように。だれかのことを、あなたのことを、大・大・大・大・大馬鹿のわたしが、わたしのきもちがいちばんだいじな、情けなくて惨めなわたしが、やさしいふりをしているだけのわたしが、どうか損ないませんように。傷つけませんように。

ほんとうにありがとうございました。わたしの生活はもう少しつづく。涙の国はここにもある。あしたからもよろしくね。ずっとみていてほしい。またどこかの涙の国でお会いしましょう。またお会いできますように。

■よい朝を、いとしいひと/plenty

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