見出し画像

「いつも楽しそう」の秘密は、自分や未来に期待しないことにある

「いつも楽しそう」とよく言われる。
どこに行っても、何をしてても、基本的に「ストレスフリー」な印象を持たれることが多い。他人の目には、負の感情などなく、人類みんな大好きで、のびのび楽しく生きているように映っているらしい。
確かに楽しいと思うことは多いし、自分は毎日幸せだと思っているのだけど、どうしてそう思えるのだろう?と考えてみた。

たぶん、何より、自分や人生に期待をしていないということだ。
これが実は、日々幸せだと思える一番の理由かもしれない。
自分の理想だとか、こうならなければいけないだとか、自分で自分にプレッシャーをかけて、自ら囲いをつくって閉じこもっている人は、とても多い。
それで自分のキャパを超えてしまったとき、疲れてしまったり、電池切れになったりして、立てなくなってしまう。
夢や目標を持つことは大切だけれど、それで自分を潰してしまっているのなら、そんなものは必要ない。
プライドや、理想を持つよりも、もっと自分を楽にしてあげる努力をするべきなのだ。
人生は思い通りにいかないものだし、自分自身も思い通りにはいかないものである。それを前提として生きていると、何があっても「仕方ないか」と思える。
どこか諦めの気持ちを持っているから、幸せを感じるハードルも低い。
少しでもうまくいくと、どんな些細なことでも「ラッキー!」と思える。これは決してネガテイブな考えではなく、むしろポジティブ思考ではないだろうか。

自分の期待のハードルを下げると、その分小さなことで嬉しくなる。
小さな成功を積み重ねることで、自信を持つことができる。
そうなると、もっと頑張ろうという意欲も湧く。
途方もない大きな目標を追いかけて、どっしり重いプレッシャーを自分にかけるより、小さな達成を見逃さず、自分を励ましながらゆっくりゆっくり進んでいった方がいい。

あまりにも遠いところに目標をおいて、今をがむしゃらに頑張るのがいいのだろうか。
その過程が、あまりにも険しくて、何十年も毎日不幸だと思っていたら、その遠い目標とやらは、果たして本当に必要なものなのだろうか。

ショートケーキの上にのっている、一番おいしいイチゴの部分を、最後まで残しておこうとしたけれど、もし突然地震が起きて、結局その楽しみにしていたおいしいイチゴを、食べることができなかったら?

わたしは、遠い未来の不確かな幸せを掴むために、今しんどい思いをするくらいなら、そんな未来の幸せを、追い求めることはしないと思う。
その代わりに、今、この瞬間を、幸せだと心の底から思うように、暮らしたいと思う。
本当に今より幸せかどうかなんて分からない未来より、今を何としてでも幸せだと思えるよう動きたい。そうして動いていれば、自然と未来も良い方向に向かう気がするのだ。
それに今、幸せを感じられないのに、どうして未来は幸せだと言えるのだろうか?(もちろんこれは、周りに恵まれているから、言えることなのかもしれないが。)

毎日、大げさではなく、「今日が最後かもしれない」と思って生きている。だから後悔するようなことはしないし、いつが最後になっても「幸せな人生だったなあ」と思えるように本気で生きている。
「失ってやっとその人の大切さがわかる」「今日が最後だと知っていれば・・・」という言葉は、嫌というほど聞く。だったら、なぜ、そのように行動しないのか?と、どうしても思ってしまう。

20代半ばでどうしてそんな風に生きているのかと疑問に思う人も多いかもしれないが、死は本当に突然、思わぬところでいつ降りかかってくるかも分からないものだし、人間は脆い。とても弱い生き物だ。「いつも通り」の毎日が、突然終わりを迎えることだってある。
だから、余計なプライドを持って生きないで、あれもこれも欲しいと求めることはしないで、今あるものに感謝しながら、精一杯幸せに生きていきたいと思うのだ。

人や環境、社会は変わるものである。それは仕方がないことで、どれだけ嫌だと思っても、それに抗うことはできない。
そして何事にも必ず最後はある。その最後がいつ来るは決めることができないし、予想することもできないけれど、その可能性は20代でも80代でも平等に与えられている。いつその時が来てもいいように、不確かなものに期待をかけて生きたり、分からないことに不安を感じたりするよりも、「今」「この瞬間」に対する自分の気持ちを変えることに動いた方が、結局人生は幸せなものになるのではないかと信じている。

(余談)
今までの経験や主に家族の影響を受けてこんな風に考えて、生きるようになったのだけれど、仕事で仏教に触れる機会があり、自分の考えや行動は仏教の教えに似ているなと気がついた。そうとは知らずに、自然と悟りの道を歩んでいたと思うと、少し面白い。
お寺にほとんど行ったことがないし、親戚はキリスト教だったり、無宗教だったりで、あまり仏教に触れた覚えはないのだけれど、両親や周りの知性に触れて、身体に刷り込まれていたのだろうから、不思議である。
いつの間にか、自分のことを祈ることはなくなった。他人の幸せばかり祈っている。旅行などで神社に訪れたときも、自分ではなく他人の幸せを祈ったし、今生きていることにただ感謝するだけだった。自分の欲など、今はさほどないことに気づく。そういった考えも、仏教に通じていると知り、興味深いものである。
人を嫌いになったり、憎むことはあまりないのだけど、嫉妬だったり不安だったり、自分の避けられない負の感情が嫌になって、感情をまっさらにしたいと思うことが、社会に出てから、とても多かった。そこで、自分の感情をコントロールする訓練だったり、ひとつひとつの行動に意識をもつことだったり、発する言葉に気をつけるなど、どうにか感情に負けずに生きるやり方を実践して、苦しい感情と戦う日々が続いた。(今もそうだけれど。)その戦いこそ、仏教でいう我をなくす、ということに通じるのだろう。
どこの宗教も信じているわけではないけれど、無意識に仏教の教えに沿ったような哲学を持っていたことが面白く、人間はつくづく、周りに影響されて形成されるものなのだなあと、思った。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?