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本屋さんってやっぱりいいなあ。

この週末、久しぶりに本屋さんに行った。
ここ数年はKindleで本を読むことが多く、あまり本屋さんには行っていなかった。
久しぶりに紙の本が読みたくなり、学生の頃よく行っていた新宿の洋書専門店「紀伊国屋書 Books Kinokuniya Tokyo」に夫と行ってきた。
タカシヤマタイムズスクエア南館の6階にあり、フロアに並ぶほとんどの書籍が英語をはじめとする外国語という、日本では珍しい、たくさんの洋書に出会える場所だ。
以前は紀伊国屋書店が1〜6階を占めていたと思うが、現在は下のフロアがニトリになってしまった。
この6階が生き残ってくれて本当によかったと、心底思う。

フロアに足を踏み入れたとき、もうそこはわたしにとって、テーマパークのようなものだった。
相変わらずの素晴らしい品揃えにわくわくして、白のマスクに隠されていたのは、思わずにやけるわたしの顔である。
普段読みたい本はいつもGoodreadsで探しているのだけど、こうしてゆっくり店内を歩きながら、美しい装丁の数々に見惚れたり、知らない作家や面白そうなタイトルに出会い、あれこれ手に取ったりしながら、どの本にしようか悩む時間は、とても楽しかった。
予想外の本と出会える楽しさは、本屋さんでしか味わえない。
そして自分の体全体を使って、本を選ぶ感覚が心地よかった。ページをめくるときの手触り、音。新しい本の匂い。とてもわくわくした。
せっかく面白そうな本を見つけても、Goodreadsで評価が低いと読むことを躊躇してしまうのだけど、本屋さんにいる時は調べないようにして、自分の直感を信じることにした。
あらすじや最初の数ページを読んで、ぐわーっとなんとも言えない興奮が頭まで上がってくるような感覚、これは面白そうだとドキドキする感覚をおぼえた本を、家に持って帰ることにした。

子どもの時、休日に本屋さんに行くのが好きだった。
「どこに行きたい?」と聞かれて、本屋さんと答えることは多くあった。
本だけは、両親に唯一いくらでも買ってもらえるものだった。
その習慣が今でも抜けなくて、本だけは無制限に買ってしまう。
もし、わたしが子どもを持つ日がきたとしたら、同じように、本だけはいっぱい買ってあげるんだろうなと思う。

旅先で本屋さんに寄って、ついつい買ってしまうのは最近の習慣である。
日本語の活字が恋しくて、立ち寄ったニューヨークの紀伊國屋では、岡本太郎著『日本の伝統』を買った。
奈良の古本屋では内田洋子著『モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語』、京都に行ったら必ず寄る古本屋で買ったのは松村圭一郎著『うしろめたさの人類学』、などなどである。
選ぶ本はそれぞれまったく旅とは関係のないものだが、お土産の代わりに何かしら一冊買ってしまう。
毎年の誕生日に一冊本を選んで買っているのと同じように、何か特別な日の「その時」の自分に響いた本を手元に残したい、という思いがある。
手に取る本で、その時自分は何に関心があったのか、どんな気分だったのか、分かってしまうものだ。

それで思い出したことがある。
仕事で面接をする機会が多くあるのだが、「好きな本はなんですか?」という質問はNGらしい。
趣味に読書と書かれていたら、話を始める前のアイスブレイクのつもりで聞きたくもなるし、大体好きな本を知ったところで偏見を持つわけもなく、不採用に繋がるわけがないだろうと思うのだが、それほど読む本はその人の思想や信条、人生観に深く繋がっているということだろう。
わたしだって、時として読んでいる本をあまり人に言いたくないこともある。その本を読んでいる自分の心まで見透かされそうで、恥ずかしくなるのだ。
だけど、そもそも面接でその質問をされたら、出来るだけ当たり障りのない本を選んで言うから、そこまでピリピリしなくても、というのが本音である。

時に、救いや答えを求めて、すがるように本を読む。
現実から少し意識を逸らしたくて、本を読むこともあれば、
ただ単に、エンターテイメントとして本を読んだりもする。
読書と一言にいっても様々だけれど、本はこれからも人生のお供として、いつもそばにいて欲しいものだ。
そして人生の一冊となるような本には、きっと本屋さんでしか出会えないのだろうな。

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