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虚無と自然と北欧生活

ここ最近、何に対しても集中できなかったり関心が向かなかったりということが続いている。7月末くらいからだろうか。ノスタルジックと言ったら格好がよすぎるが日常が虚で無気力で味気ない。

だからと言ってタナトスがズズッと迎えにきてるわけでもないけどね()()
「あぁ、これが世間のいうコロナ鬱なのかな」とか思いつつ、あれだけ息をすって吐くように書いてたnoteも書けなくなってしまったし、そうした自分に嫌気が差してた。

はっきりとした鬱の確信があるわけではないのだけど、私はきっとそれに近い状態なんだと思う。無気力と不安と嫌悪感とが日常を蝕む。あぁーーーもうって思いながらも身体や頭は思うように動かない。(ヒトって脆弱だよね)


そんな中、卒論をやるために訪れた書店で北欧関連の書籍を手にした。
フィンランドに関しては春ごろから動画やらセミナーやらで学んでたし、デンマークについても留学に行っていたお友達から話は聞いていて少し知っていた。お話やセミナーでもそうだけど、その本にも多く書かれていたもの。

それが「自然」だった。

フィンランドは国の7割は森で森林面積は世界第1位。自然と共に生きるフィンランドの人々の生活にはもちろん自然があふれ、彼らの持つ精神もまた、自然からの影響を大きく受けている。

他のデンマークについての書籍にも森のこと、湖のことは書かれていた。 そして、その書店で久しぶりにあった友人との会話で私は自然を求める事を決めた。彼女は免許を持っているから密を避けて行きたい時に自然に触れられる。

あぁ羨ましいと思いつつ、コロナの状況じゃ免許をとるにしても時間がかかる。遠出を諦めていろいろ考えた末、自転車で行ける範囲で自然を求めることにした。

私の住んでいる埼玉に自然は案外そこら中にある。しかし、私が求めている自然というのは雑多な自然ではない。

人がいない山川、夕陽や星空。そういったものに囲まれた中でChillしたい。

埼玉と言ってもほとんどの場所は住宅街や繁華街であるし、自然が多い秩父でも今や観光客であふれている。その中でもいつか行った秩父の手前、綺麗な川のことを思い出した。

記憶を辿って川に。片道30kmの小旅である。
晴れの日もあって喉が常に渇く。結局持っていったマイボトルに加えて、
片道ペットボトルだけで3本も消費してしまった。

常に喉が乾く感じと照りつける太陽。高校のハンドボール部時代を彷彿とさせる状況に懐かしさを覚えつつ、秩父の麓の川を目指す。

以前いった時はその川先の駅まで行って、そこから秩父へ行ったっけ。その時は友人もいたからまだ勢いがあったし、目的は秩父であったからドーパミンでどうにかなっていたんだと思う。

半分を越したあたりで疲労の影。「自分何をやっているんだろう」と我に帰りそうになりつつ、自転車を漕ぐ。

覚えている道、覚えていない道。

記憶をつなぎ合わせてやみくもに漕いでいたら案外あっけなく到着することができた。前は「いいな」とおもいながら通り過ぎた川。

着いた時人影はぼちぼちみえたけど、私が着いて入れ替わりくらいで人は減っていった。


北海道時代、澄んだ川はありふれていた。3分歩けば山の麓、そこで湧水を飲めたし、休みの日は丘陵公園で川遊びをしながらジンギスカンしたり。

そういった日常は関東に来たらなくなった。代わりに光化学スモック警報が鳴る中で部活をし、下水臭い川や焼畑の煙にむせる生活がそこにはあった。


いつから純粋な自然が珍しいもの、こうしてわざわざ触れに行くものになったんだろう。まさかこうした逃避行から環境問題を考えることになるとは。


いけない。考えに来たわけではない。私は自然に囲まれに来たのだ。水底に大小様々な石が見える。夕陽が川を射し、揺らぎによって水面が光る。

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普段なら五月蝿く感じるセミの声もまた、"自然"に感じられた。川辺でボーッとしてみたり、川の真ん中に立って水の流れを感じたり、石を積んで水の流れを変えてみたり。


気がつけば2時間近く、その川に佇んでいた。
帰りのことも計算しつつ行動せねばならない。自然と引き換えに得る疲労と筋肉痛を考えるともはや目的に対する手段の苦しさったら。

山の麓から引き返す途中、飯能のムーミンパークの存在を思い出した。
平日だし夕暮れ、人も少ないかも。そう思った私はムーミンパークに隣接するメッツァビレッジへ。

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パークから出ていく人を尻目に入る。正直サウナがない時点でフィンランドへのリスペクトがたりてないと思うけど、大人の事情なんだろうね。
(京都のMAJA HOTELも大人の事情で屋上サウナ頓挫したらしい。大人‼︎)

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湖に隣接したこのパーク、あちこちに座るベンチや大きなテント、フィンランドの木造建築を意識した建物が点々と。

家で過ごしていて安いアイスコーヒーしか飲んでいなかったからサイフォンで淹れたコーヒーがものすごく美味しかった。

わがままかもしれないけど、少なくともここでは自然をフルに感じることはできなかった。確かに入り口の森感や宮沢湖は「そこ」にあるものの、それらは加工や演出によって脱自然化してしまっていた。加工物としての自然。これらを意識してしまった時点で先ほどの川で感じた自然を再現は得難い。

湖の周りの角ばった柵やコンセプトが揺らぐ地元の名産品。
商業やビジネスの面で考えたら仕方がないのだろうけどね。
フィンランドかと言われたらあそこはフィンランドっぽい埼玉なんだろう。

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それでも湖に映る夕日は美しかった。湖に棲む魚が時折跳ね、波紋が広がっていく。それに細部に見えるフィンランドへのリスペクトが素敵。
ムーミンランド行っていないけど、中にはアアルトの椅子とかあるのかな。

ショップのイッタラやマリメッコをみてその場を後にした。
Artekがどうたら、というなら自分で作ればいいのよね。


帰り道。ここで長い梅雨が明けてから目立った外出をしていなかったことに気づく。行きの住宅通とは違う田園風景の広がる道を自転車で駆け抜ける。

私がこうしてかろうじてnoteを書けている、ということは多少この逃避行にも意味があったのであろう。ウイルスの問題もあるので大きい声で外出を奨励することはできない。

けれど、家に籠もって自らを滅ぼすくらいならば、細心の注意を払った上での逃避行もいいのではないか。生きるためにはパンだけではなく薔薇やサーカスも必要だ。

人生には不要不急が必要な時もある、というのは誰の風説かは知らないけれど、この不安定でカオスな日常では上手く言ったものだと思う。

無理なき生のための営みを。

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ごきげんよう。

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