見出し画像

人は何かに頼らないと生きていけないのだろうか?

今日も今日とて花粉症で絶不調。そんな中眺めるTwitterほど気分を落ち込ます、気を滅入らす素敵なツールはないなと痛感してるところです。
まだ生きてます。残念でした。
気持ち的には多分完全に「欝」でしょうね。
ぜんぜん楽しくないですもの。何をやってても。
好きな映像作品も観ようと一瞬はなるんですが、用意しだすと途端にやる気がなくなるという。
勉強しようとやり始めた途端眠くなってきて集中なんぞ出来ないし。
悪循環半端ない。
今一番落ち着くのはひとり好きな音を流しながら、こうやってつれづれと言葉を紡いでる時だけ。
表面上は「生き生きとして頑張ってましね」みたいな事たまに言われますが、見事に演技が出来てるんでしょうね。
まったくかったるく面白味が見つけられないダメ人間です。
日々歳のせいか過ぎ去るスピードに完全においてけばりをくらってます。

人は「依存症」を多かれ少なかれ、抱えて生きてる生き物。
群れを作る所、そうなんじゃないか?と思います。
中にははぐれても大丈夫な「真の強さ」をもった性質を兼ね備えた素敵な人もいらっしゃる。うらやましい限りです。
自分は寂しがりのくせにめんどくさがり、人付き合いに不器用でなれ合いは苦手。だけど人は嫌いにはなれない。でも醜さ残酷さ非常さを毎日どこがで目の当たりにするととたんに「人嫌い」が発動してしまう。
もう随分と長く何も成せないまま生きてきたせいか、あきらめに似た気持ちは、いつもあって「多分このまま一人死んでいくだろうな」って事はほば覚悟完了してる。
自分の遺伝子は受け継がれることは奇跡でも起こらな限り終わるんだろうなって事。でもこんな役にもたたないものが受け継がれても、受け継がれた子が可哀そうすぎる。
だからここで終わるのがいい。
仮に受け継がれてもこれから続く世界がけして住みよい素晴らし世界である確率は限りなくゼロに近いであろうことは、毎日流れてくる事件事故、政治家のいがみ合い、罵詈雑言、騙し騙されの金、金の沢山持ってることがステイタスで正義で幸せだと疑う事など微塵もない資本主義社会の日常。
金持ちで人をこき使える立場の者が「成功者」それ以外のものは「敗北者」
「落伍者」。努力すれば叶うんだよと煽り「方法があるから教える」とあり得ない額の金をむしりとる偽善者。やってることは皆同じ。「自分が一番得することだけに執着してる。」って事。
笑顔で助けますよ!無償で。なんて奴が一番あぶない。
それをやってるのが今の「宗教」の在り方。

辛い、悲しい、苦しい、切ない・・色々な負の感情を悩みを抱えた者たちは、確実に誰かを頼りたくなる。
「聞きますよ」「話してごらんなさい?楽になるから」
常套手段ね。でもそれで解決するならそれでいい訳だから。
だから「宗教」はあって然るべきで救われていけばいい。
でもこの資本主義社会に於いては、結局のところ「商売の一つ、職業の一つ」でしかない。今の世界、金がなければ生きていけないのだから。
だからその世界に於いても「金にならなければ相手にされなし、捨てられる。」
 で、今日の本題。
そもそも宗教って何?って事。
オカルト大好きオカルト脳全開40年くらいつかず離れず来てなんとなく解ってきた事を書いとこうと思って。
大昔がどうだったかなんて知らない(見た訳じゃない)けど、今の全ての宗教は「所詮職業」だという事。人が死ねば無償で行われる事はない。
お経ひとつ読むだけで運十万なんてとこもある。葬儀屋という職業商売があってそれも最低で10万以上。人が死ぬのも金。金がかかる。金がないけど死体をそのままにしてれば腐るだから何とかしなければならないから、焼くなり埋めるなりする。そこにも金なければ借金させて金をとる。
宗教は生きてる人たちの為の言い訳みたいなもんで死んだ人をどう扱ってどう納得させるか。そのための体系でそのために沢山の屁理屈をこねくり回して時に人の恐怖心をあおって信じ込ませて納得させる。
だって誰も死んでみて生き返った人なんていないに等しいでしょう。(よく臨死体験だなんてのは生きてる時に何かでみて刷り込まれたイメージを夢で脳がデータ整理してる段階で見させてる記憶の一部にすぎないとおもう)
宗教の成り立ちだって、キリストにしろ、仏陀にしろ、ムハンマドにしろ「俺が作った」なんて人いない。みんな彼らの教えに感銘を受けてこの教えを広げていきたい、良いことなんだからで、弟子と自らを呼んで体系づけてまとめ上げて「宗教」って形にしたもんで、その教祖はのぞんでなかったわけでしょ?(今ある新興宗教とか一部の宗教はのぞんでたでしょうね、だって目的はお題目は人を導き救うとかいってますが、資本主義社会が出来あがってからのものは金儲けでしょ?最終目的は)
普通に考えて人をただ救いたいという気持ちのみなら、あんな立派な建物、衣装、施設なんて必要なでしょ?でも権威とか象徴とか力の解りやすい形がないと説得力にかけるなんて思ってたんでしょ?あと金があれば贅沢したくなる人間としての欲望の成せる業。
本来はそこをすてて無償の愛で迷える人達を救いの開放の道へ導くって事が大体の神がかった人達の教えで願いだったと思う(かなり荒い解釈ではあるけど)仏陀なんてあれでしょ物欲を捨てこの世の理の外へいく「解脱」なんて事が最終目標なんでしょ?神みたいな超越したものを目指してた。って事は、ぶっちゃけ他人なんてどうでもいいわけだ。
そんなものが人を救うんだろうかね。
「信じるものは救われる」これにつきるもかな。
人間の思い込みは恐ろしいからね。多分奇跡なんてものの大半は人の思い込みが起こしてることなんだろうね。
だから、今信じてるものは、他人がどうあれ「自分が信じて救われてれば
それでよし」なんですよ。
別の宗教とかを否定してるわけじゃなくて存在することは大いに結構!がんがん!やってくれ!
でも今問題になってるのはそれを「強制して金を集める為に信じ込ませて結果その人の人生を不幸にさせてしまってる」ってこと。
世界をみまわしても同じ宗派なのに「ちょっと主義主張が違うだけで争ってる。」実にあわれというか、持ち上げられた教祖はそんな事一つも望んでないのに。
大体が勝手な解釈で都合のいいように宗教を利用して漁夫の利をえようとしてるだけで、そんなものに人をなんとかできる力なんてあるわけない。
でも「人の思い」それが強ければ強いほどその思いは人に確実に伝わって影響がでる。思いは電磁波と同じようなもんだとおもう。脳内でも電気信号で動がしてるみたいだし、電磁波は人の精神にも影響があるみたいだし。
幽霊とかの存在も人の思いが作り出してるもんだとおもってる。
心霊スポットなんて呼ばれる場所は必ず「お化けいるかも」「こわい」だの思っていくわけでしょ?その思いは色んな人が行く度に思いを放ってるわけでそれがたまって行けば電磁波に敏感な人は影響を受けまくるから見えちゃったり不思議な事おこっちゃったりするんでしょう。
要は「人間が一番怖い」って事。
悪意の思いが強すぎれば誰かに影響を及ぼすのは当然。
「悪意は伝染する」って事。

まぁそれでもオカルトは好き。エンターテイメントでしょ。
よく嘘だあ!なんだ!いいますが嘘じゃないんですよ!あくまでもエンターテイメント。そしてもしかして?というロマンなんです。
そこが解ってないから、危ない方向にいくし、利用され騙され哀しいことになる。
自分は長い間好きで見続けてきたからだんだんとわかってきた。
「この世に不思議なことなどないのだよ!」という某怪奇推理小説の主役のいう意味がわかってきた。
今のところ自分はそんなスタンスを秘めながらこのジャンルとつきあっているし、これからもつきあっていく。


人間ほど怖いものはないし、愛おしくも思えるものもいない。
けど、今は疲れた。
猫がほしい。
猫とくらしたい。
人間嫌いは今日も健在だ。
でわ。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?