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ママちゃんと俺の5年愛戦争(仮)1

プロローグ

2023年1月3日(火)夕方過ぎにこれを記している。
あの日からあっという間に年を越していた。
去年の12月。
家族全員、コロナ陽性になった。
きっかけは兄のコロナ陽性から始まった。
隣の部屋に隔離をして弟である俺が世話をする事にした。
マスクをつけて消毒して最新の注意を払ってきたはずだった。
でも兄の陽性3日後、俺も熱が40度近くになり病院に行って判定キットを渡され、やると見事に陽性が判明。
同じ頃母親(83)も熱が38度代になりみなし陽性を受けコロナ陽性となった。
父親(86)は元々家族との折り合いが悪いのでほぼ2階で隔離的生活をしていたので触れさせない様に注意を払った。
しかし1週間後父親も具合悪くなり病院に行くとコロナ陽性を受けた。
これではれて家族全員がコロナ陽性になったのである。
俺も兄も熱と喉の痛み、咳、痰が酷くて凄く苦しかった。
しかし俺はこんな状態でも家族の世話をしなくてはならず無理をしてでも動かなくてはならなかった。
父親、母親とも高齢者であった為、ラゲブリオというコロナの治療薬の飲み薬を処方されていてでかい赤いカプセルで一回3錠(確か)でとても飲みにくそうだったが俺達兄弟と違って少しずつ元気になっていく様に思えた。
しかし飲み終えた5日後、母親が「苦しい」「気持ち悪い」「吐きそう」と急に言い始め、食べ物も飲み込めなくなり、水分も飲み込めなくなり、かかりつけ医と相談しつつ訪問看護をするその日12月15日朝9時45分。救急車で運ばれた東京医科歯科大附属市川病院にて帰らぬ人となった。


母親は、アルツハイマー認知症で糖尿病。5年前認知症に認定されそれ以来俺が仕事を辞め母親と二人三脚で介護という戦争を繰り広げてきた。
悲喜交々色んな事があった。
今だにその場面、その言葉が湯水の様に溢れてくる。
俺の人生全てを母親の人生に全て注ぎ込んだ。
親孝行らしい事は何一つしてこなかったし、「やるなら今しかねえ!」だった。
それでも今思う事は「親孝行出来ただろうか?」「満足してくれただろうか?」である。自分的には反省ばかりの日々だった。
それでもたまに思い出した様に「ありがとう」「ごめんね」と時には涙、時には笑顔で言ってくれたそれが俺の励みにもなったし力にもなった。
正直あれから何をしても張り合いが無いし面白くない。
母親がいつも座ってた場所を確認してしまうし、ケアセンターの時間を気にしてしまう。「ただいま」って帰ってくる気がしてしまう。
俺に「こんな涙が残っているんだ」ってくらい泣いた。幾度も幾度も涙が溢れた。
そして力が抜けてしまった。
年末年始本当に屍状態だった。
時が止まった様だった。
残された男3人。3種3様に廃人と化した。
ダメージが強すぎた。

でもいつまでもこのままじゃ母親が悲しむ。
俺だけでも歩き出さなきゃならない。
急には無理だけど少しずつ取り戻さなくてはならない。
そして母親との介護の日々、最後の日々、残された者達が経験する悲喜交々を記しておきたいと思った。
そして誰か同じ苦しみで悩んでる人達へのヒントになれればと思った。
実を言うと母親が生きてる内に介護生活を記して本にでもなればと思って密かに準備してたのだが書いていたノートが紛失してしまった。
だから定かではない記憶を頼りに記していきたいと思う。
間違っている事もあるかも知れないが出来る限り史実の資料(あれば)に照らし合わせて書いていきたい。そこら辺はご了承頂きたい。
そして題名も仮とさせて頂いた。
書いていく内にもっと良いアイデアが浮かぶ可能性もある!と思い余地を残した。
なんか繰り返し同じ文章を記してしまってるけどなんか気分的にちゃんとしたくてリスタートの意味でそうさせてもらった。
でも記してきたものは消しません。
その時その時の思い記憶はそのままに。
もし本に出来るならちゃんとまとめます。
兎に角すぐ3日坊主になる俺の性根との勝負ですね。
次回から認知症認定受けてからを記していきます。
あと気まぐれで今の日記風な思いも書きます。
兎に角何かしなくちゃ。
一歩づつ進んでいく為に。

よろしくお願い致します。

2023年1月3日

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