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寄り添い方の、模索。

高次脳機能障害を持つ義母は、言語化に不自由だ。
彼女はそれをもう10年以上悩んでいて、一時期は鬱っぽくなり何種類もの薬を飲んでいた。

あの時ほどではないけど、今も昔の自分と比較して必ず嘆く。75と言えば、障害の有無に関わらず不自由度が似たり寄ったりする年齢なのだけど。彼女は年を取らないのかもしれない。もはや憂鬱とは、義母のルーティンワークだとおもって眺めている。

元々ちゃんとしていた頃がある人は、そういうところが障害とは別に、不自由だとおもう。
リハビリにも通い大分改善してきたものの、よくできた頃の自分が忘れられず、義母はことあるごとに「やんなっちゃう。わたしはもういいの」と涙ぐむ。

なまじっか、そろばんも着付けも茶道もできて、60過ぎて介護資格まで取った努力家の義母は、余計にいまの歯がゆさが堪える。
その1つも出来たことのないわたしは隣で置いてけぼりな気分になり、心底、わたしって何だろうな、と思ったりする。彼女の理想に、この年齢でも手が届いたことがない。

何がもういいんだか。本当にもういいのなら通院の催促をしてこないでしょう。泣きはしないでしょう。特段美しいわけでもないただ30年前の皮膚で覆われただけのわたしの手を見て、綺麗でいいわね、なんて、嫉妬の混じった声はしないでしょう。

まだまだ長いよこれからも。

わたしの良心という杖は何度も補強され、丸太のように太くてツギハギだらけだ。どこが折れるポイントかもう知らない。わからなく、したの。自分のために。

高次脳機能障害ではないけど、わたしも言葉に不自由だ。そこがわたしに義母を冷静に眺めさせ、理解を産む。その理解でじぶんを殴りつける。納得を植え付け、なんとか憂鬱に負けず、明日もこの足がこの腕が稼働するようにと願う。
明日の朝も、あの子と学校に歩いて行けますように。

殴りつけながら生きながらえさせているんだ。きっと彼女の悲しみを理解する必要なんて無い。だけど理解しないと次の選択が取れないのがわたし。この不自由さが心底、恨めしい。

その自覚は、さらにわたしを殴りわたしの命を燃やそうとする。

どんな言葉でも、もう構わない。義母にわたしの手が届かなくても構わない。この届かない手は短くて悲しい。なのに同じ明日が続くのは虚しい。

なぜこの手の熱さを失う気がしないのだろう。明日も明後日もほんの小さな嬉しい出来事で折れた心は再生し、また手を伸ばすわたしを知っていて、できるなら。できるなら一緒に、疲れたねって言いながら、あの先生は時間かかるけどいい先生って笑いながら、お昼ご飯を一緒に食べたい。

どういうわけか、なんのこっちゃか、悲しみが嫌いじゃないんだ。むしろ頼り、悲しみで物事の理解を図ろうとする。それも自覚がある。

「何を言ってるかわからない!」

そう夫は義母に苛立ちをぶつける。いや、八つ当たりだ。ああ男の子の人生は不便。でもそのまっすぐさが嫌いじゃない。むしろ好きだと思ってしまう。

年老いた母の不自由さを見るに耐え兼ね声を荒げる夫を抱きしめて、背中をポンポン叩きたい。わたしの知らない若き日の義母が夫には見えてしまうんだ。汗をかき夫を抱いた義母に、抱かれた熱を、夫は知っている。


元の姿を知っているというのは、とても、不自由なことだ。

そうおもうと涙が出そうになる。
大丈夫、きっと伝わってると、言いたくて言えない。そんな軽々しいことばなんて出せない。悲しみと好きが渦巻く夫への想いを、ことばにするなら、可愛いが適切だろうか。

あなたのお母さんは、あなたの親という時間を過ごしたことのある人だ。
それしかわからないけど。それだけは、わかる。

そんなもの言葉にできない。

義母の幸せを作ることが出来ない。
身代わりになれない。

わたしはだれの幸せも知らない。

じぶんの、半径50センチの幸せを守ることに命がけでいる。

まるで懸命に人様の事情を汲み仲立ちをする。このじぶんを、心豊かな女にも、親身な人にも思えない自分がいる。

わたしが誰と一緒にいるのが幸せなのか、自分でも決められないからだ。
これは一種の賭けだと思ってるのを、誰も知らないとおもう。
わたしが誰の幸せも知らないのと同じで。

知らなくていいことは、知らないままでいたい。

どこまでなにを積み上げてるか、未来がわからないまま、10年経った。
だけどどの時も精一杯を、とにかく積み上げた。

あなたはわたしより幸運なことに老いていて、幸運なことに夫の親で、幸運なことにわたしの子どもの祖母なのだ。

親のわたしは命の寄り添い方に、真摯にならざるおえない。

不自由な自分が命に寄り添えるよう、こねくり回していたら、へんな癖がついてしまった。
正統派の寄り添い方に、寄り添えてない気がする。我流で何とか凌ぎ、その日その日を間に合わせた。
普通の寄り添い方がよくわからない。

この10年の通院中、ずっと何百時間も、義母の横で笑うわたしの心の中を知らない義母は、この日本の中では不自由度の低い幸せな高齢者なのだとおもう。

気がつけないなら、悲しいかもしれない。
けど、あなたの不自由さへの悲しみも、わたしとみんなを助けているのだと思うようになった。わたしはわたしなりに、人に寄り添う癖を学んできた。

お義母さん。

10年とは、わたしには偉大でした。