閉じた世界ばかり見ていた(飲み会のことを思い出した日記)
「回送」の文字を電光板に映しながら走り去っていくバスを見て、あの暗い車内のなかで運転手は何を考えているんだろうか、とふと帰り道に思った。人を運ぶためのものがその目的を失ってから進む先を思い、その閉じてしまった目的性になんだか物悲しくなった。だからかどうかはわからないけれど、急に分かったことがあったので日記にする。
僕はよく映画を観る。とても多くの作品を観るような映画通ではないし、さまざまな作品をきちんと覚えていて、それらから得たものをきちんと意識して、その人自身を輝かせるような豊かさを持ち合わせているようなタイプの人間でもない。ただ少し人より映画をよく観るというだけだ。
同じようによく本も読む。ただ、多読というよりは自分の好きな作品を繰り返し楽しみ、その楽しみに「同じ作品から毎回違う気づきを得る」という目的を見出しているような感じで本を読む。映画への向き合い方とは少し異なるけれど、「それほど熱心に世界を知ろうとしていろいろなものに手を出すわけではない」というところは共通してはいる。
ここのところ、よく家にいる。ここのところ、というよりは「この3年のあいだ」というのが正確な表現になるだろう。
この3年のあいだに、僕は外へあまり出歩かなくなった。必要に迫られてのことでもあったし、それにだんだん慣れてきてしまったというところもある。おかげで映画や本や音楽に向き合う時間は爆発的に増えたし、それはある側面から見れば自分が求めていたことでもあった。腰を据えて自分が何かを得られる作品に向き合い、自分のなかに落ちてきた気づきをきちんと整理していく営みは、自分を豊かにしてくれる。
一方で、今まで頻繁に出かけていたのに、それを必要としなくなった自分を肯定するようになった。「近場にもいいところはたくさんあるじゃないか」「不必要に雑多になった情報は感覚を鈍らせることがあるかもしれない」「洗練されたものに触れなくてもうまく生きていくことができる」そう思って東京に行くのを忌避すらしたり、海によく出かけてその良さを確かめるような文章を書いたり、地元に戻れてよかったといろんな人に言って回ったりした。それには、自分の豊かさのために多くの作品に向き合ったという事実もきっちり伴われていたと思う。
この前、久しぶりに大学の後輩と出かけた。紙博というイベントに出かけて、自分の好きなものを見て回り、少し出た金銭的な余裕に身を任せていろんなものを買った。何に使うのか、いつ使うのかわからないけれど心を動かされるものに出会うのは、とても心地が良かった。
ちなみに浅草で食べた天ぷらも絶品だった。地元の店で食べる海鮮丼と同じくらいおいしかった。
また、最近歩き回ることも増えた。誰かと一緒の場合もあるし、ふと思い立って一人で小一時間適当にただ歩いて見知らぬ公園にたどり着いて帰るというようなこともある。この3年間自分に言い聞かせてきたことにいい加減しびれを切らしたのか、身体が勝手にそれに対して拒否反応を示し始めたのかわからないけれど、3月の終わりあたりから堰を切ったように外へ出るようになった。
そして、4月に入ってから、仕事がつらいと思う瞬間が怒涛のようにやってきた。特に今週のつらさは群を抜いていた。新しい人間関係ができ、新しい人たちと仕事をするようになり、重要なターニングポイントを迎える直前のような話を誰かから聞くことが何度もあった。さまざまな話を聞くことに慣れていたつもりの自分にとって、これほど不可思議で動揺する経験も久しぶりのものだったと思う。
続けて、日曜の夜が少しだけ嫌になった。少しだけとは言ったものの、この一年間ほとんど日曜の夜が嫌だと感じたことはなかったので、それは僕にとって非常につらい体験になった。今までそんなことなかったのに、毎日毎週必ず訪れる夜が嫌になるというのはとてもつらい。そしてその経験は以前の自分にもあった。とてもはっきりとあった。よくない兆候だった。
毎日、本当に毎日コミュニケーションをとる。生徒、同僚、保護者、今まで知らなかった、自分が生きてきた世界には登場しなかった人たちと、急激にコミュニケーションを取るようになった。そして気づいたことがある。僕の世界は閉じられていて、そこに長く居すぎたせいで、僕は新しいコミュニケーションに疲れるようになってしまったのだ。
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村上春樹の小説が好きでよく読むのだが、それらに対する感じ方が大きく変わった。「僕にはどうしようもなかった」と言い放ったり「ほかに何ができただろうか?」と問いかけてくる主人公に、「無責任だ」と感じることが多くなった。「肩の力を抜けよ」とか「君は深く考えすぎる」とか、そういう言葉に敏感に反応するようになった。これは大きな変化だった。少し前の自分は「人生にはきつい瞬間があり、それに対する防衛策として、回り道をしたり逃げたり脱力したりすることは正しい」と思っていたからだ。
逆に、今まで比較的興味を惹かれなかった「孤独へ向き合う力」を扱った作品や描写にとても惹かれるようになった。もとからどの作品にもそういった力が通底して描かれているとは思っていたけれど、「とりわけ」それを扱った作品や描写が僕の心を捉えるようになった。『ねじまき鳥クロニクル』、『ノルウェイの森』の下巻、『1Q84』、『騎士団長殺し』のラスト……どれも、どうしようもない状況で藻掻いて、足掻いて、自分の中でだけであっても、周りを含めてのものであっても、ある種の孤独に対する回答をくれる作品だと思う。それらが僕の中でとても関心を持てる作品になった。
おそらく、これは3年間で僕が作品に向き合った結果生まれたものだと思う。それについて、とても純粋にうれしく思っている。
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先週、本当に久しぶりに人と一緒に海へ行った。海へ行くときのことについては以前書いたけれど、基本的に誰かと一緒に行くことはとても珍しい。
誰かと一緒に海に行ったときのことや、そのとき話したことは、僕はかなり長いあいだ覚えている。別に覚えようとしているとか記憶に焼き付けるように過ごしているとかではなく、自然とそうなる。どういう姿勢を取っていたとか、どれくらい歩いたとか、海が光を反射していた様子とか、水平線のぐあいとか、そういうことも併せて鮮明に覚えている。
そういうコミュニケーションをとったのも本当に久しぶりだった。4月のつらい状況にあって、それが閉じられた自分の世界と新しいコミュニケーションへの疲れによってもたらされたという現実に気づいているなか、あのとき海辺をその人と一緒に歩けたことは、本当に僕にとってあたたかく、前向きで、親密な思い出になった。記憶ではない、自分の頭の中にはっきりと残るという感覚があった。
人がたくさんいて、みんな楽しそうに思い思いの時間を過ごしていて、初夏の名残を思い起こさせるような岩場のぬくもりと、秋の始まりを込めたような小さな風がそれを引き立てていた。
話の内容はとりとめもなくても、僕はけっこう笑っていたと思う。楽しかったからだ。ただ歩いて、ほかに何もせず、帰りもずいぶん遅くなった。(そのあと本屋に行ったからだ)完璧な思い出というのが起伏に富み、物語を感じさせるものであるならば、僕の思い出は完璧ではないだろうと思う。でも、完璧であるなんていったい誰に決められる?
率直に書くのはある意味でとても気恥ずかしい。でも、それを残してあとで見たとき、自分の見えていなかった部分は見えるようになる。見返せればだけれど。
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そして、今日に至る。
祖父の十七回忌と少し残してきた仕事をこなして、大学のときの同級生との飲み会に向かった。礼服と黒いネクタイからスーツに着替えたとき、なんだか視界が少し明るくなったような気がした。
高田馬場へ向かう電車に乗っているとき、そういう電車の乗り方をしたのが本当に久しぶりだということにも思い至った。3年前はよくやっていたのだ、今考えれば驚くほどに長い間電車に乗り、勉強し、本を読んで、また電車に乗っていた。そして、多くの人にあって多くのコミュニケーションを取っていたのだ。
飲み会では、またとりとめもない話をした。昔懐かしい笑い話、おそろしいほど酒を飲んで今考えれば恐怖にすら思えるような会を幾度となく開いていたときのこと、誰かの結婚や出産、新しい門出を祝うあたたかい言葉、知らない世界の真に迫るような「本当の」話……すべてがとても調和がとれていて、「ああ、自分の戻りたい場所の一つはここだ」と素直に感じることができる、とても心地よい飲み会だった。(付記するなら、その思い出の居酒屋はこの3年間の消耗で店を閉めることになったそうだ。とても寂しいし、アルコールも相まって僕の感情を迷わせる事実だったが、その事実すらも僕にある種の気づきをくれた。どうにもならないことにも、後悔するだけではなくどうにかしようと向き合わなければならない、というようなことだ)
法要で実家に帰り、途中で人もまばらな自分の職場をどこかから俯瞰しているように見分し、遠くへ時間をかけて飲み会に向かうことで、取り戻せた何かがあるような気がした。
そのなにかは、帰り道にバスを見かけることでようやく僕の中で形になってくれた。
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世界は閉じられるべきときが確かにある。けれど、閉じられたままでは失われるものを数えられなくなる。そして、それらは多くの人との関わりによってのみ失われずに済む。自分のあるべき姿を探し、豊かさを得、とるべき行動にきちんとした気づきをもたらしてくれるのは、いつも開かれている人との関わりであり、その他愛もない空気なのだと思う。
暗い回送バスの運転手の気持ちは、家路をたどる安堵感なのか、役目を終えた達成感なのか、誰も運ばない無力感なのか、僕にはわからない。でも、その運転手はまた明日電気をつけて誰かを運ぶことになるのはわかる。
明日から、また新しい人たちとの新しいコミュニケーションに向かい合っていけるような心持ちになった。
今日は前向きな気持ちで日記を終えることができたような気がする。誰にも認められなくても、僕は僕のために暗くない文章を書くことができる。それは、自分をちゃんとした場所に連れて行ってくれるような気がする。
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