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◤人生◢ 「幸せ」って何ですか?[#62]

「幸せ」って何だろうか。

雨風凌げる家があること?
暖かいお布団で眠れること?
ご飯をおなかいっぱい食べられること?
仕事があって、お金を得ること?
家族や友だちと笑って過ごす時間?
YouTubeで動画を見ている時間?
一人で静かに過ごす時間w

わたしにとってはどれも正解だし、どれか一つは万人に当てはまるだろう。

しかし、これらの時間を過ごしても、わたしは、「あ~、幸せだなぁ」と声に出して言えないし、その感情を感じ入ることができない。
心の奥の奥の奥の方では感じているのかもしれないが、実感として分からないのだ。
「幸せ」とは何たるか、を考えている時点で、わたしは「幸せ」?

とても贅沢な悩み。しかし、同じような悩みを抱えている人は少なくないのではないだろうか。

***

そもそも、「幸せ」って何をもって「幸せ」って感じるんだろう。
「(不幸な)〇〇に比べたら幸せ」と比較対象があって感じられる感情なのだろうか。

じゃあその比較対象は? 外?内?
「あの人に比べたら」「あの家に比べたら」「あの地域に比べたら」。
対象を“外”に求めると分かりやすいかもしれない。でも、それは本質的な「幸せ」には直結しないということは分かる。
「幸せ」の比較対象を外に求める、と言うことは、「不幸」の比較対象も同様に外になるということ。
「わたしは、あの人に比べたら、お金がない。家が狭い。モテない。忙しい云々…あー、わたしって不幸だ」
平々凡々なわたしには“上”も“下”もいるわけで、そんなことで「幸せ」を追い求めるのは虚しく、非生産的である。
ましてや、その比較を他人に強制されると否定したくなる。

***

じゃあ比較するのはわたし自身?

人生楽あれば苦もあり、山あれば谷もある。
10代の頃は苦や谷の方が多くて、なかでも中学校3年間は暗黒時代だった。
毎日「どうしたら『ラク』になれるか」と「『ラク』を選択したら親を悲しませてしまう」の狭間で過ごしていた。
今ほどフリースクールの数も認知も理解もなかった時代。わたしはその場所から“離れる”という選択肢を知らなかった。

その時と比べたら、今のわたしは「幸せ」と言える。
わたしを傷付ける人はいないから心を閉ざすことはない。友だちと呼べる人もできた。お金がある。自分の好きなものが買えるし、好きなものも食べられる。嫌なものは「嫌」と声を上げることが出来る。
しかし、この自己完結する考え方も、本当に「幸せ」と呼べるのだろうか。
少なくとも“外”を比較対象とするより、良い気はするけれど、今一つ腑に落ちない。

ひとまず、「幸せ」を感じられるのは「不幸」を知っているからこその特権と思っておこう。

***

今までの話で、わたしは「幸せ」を“頭”で感じようとしていたことに気が付いた。
頭で感じる、とは変な表現であるけれど、「こう、だから、こう」と口頭または文章で説明できる感情といった感じ。(ますます分かりにくい?)

じゃあ「幸せ」ってどこで感じるのか?また新たな疑問が湧いてきた。
心臓?
こころ?そんな、目に見えない場所ではない?
俗に言う幸せホルモンが分泌されたら?ということは、やっぱり頭?
感情と言っている時点で頭ではない?

いちばん大切なものは、目には見えない?

一向に答えの出ない疑問が、どんどん湧いてくる。
数学的に「幸せとはこれです!」といった答えが欲しい。

***

「幸せ」の定義は人によって違うし、“感度”や“閾値”も違う。

現状に慣れすぎて、幸せの定義が分からなくなり、閾値が高くなってしまったわたし。
今、目の前にあるものが幸せなんだよ、と言われてもなかなかピンとこなくなった。
それはそれで、良い。ありのままの、今の自分を受け入れよう。

だから次は、もう少し意識的に感じ入ってみようと思う。
感度を上げて、閾値を下げたら、今よりワクワクする毎日が待っているはずだから。

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